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In Italy for thirty years under the Borgias they had warfare, terror, murder, bloodshed – they produced Michelangelo, Leonardo da Vinci and the Renaissance. In Switzerland they had brotherly love, five hundred years of democracy and peace and what did that produce…? The cuckoo clock. (Orson Welles)

8月
2009
25
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「ボルジア家統治下の30年間,イタリアで起きたのは戦争,テロ,殺人,流血だったが,同時にミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチとルネッサンスを生んだ。スイスには友愛精神と500年に及ぶ平和と民主主義があったが,生み出したものといえば...ハト時計だけだ。」(オーソン・ウェルズ)


「第三の男」 右がオーソン・ウェルズ

「第三の男」 右がオーソン・ウェルズ

映画ファンならずとも知っている有名なセリフ。キャロル・リード(Carol Reed)監督による映画「第三の男」(The Third Man) の観覧車のシーンでオーソン・ウェルズが言うことばだ。

脚本はグレアム・グリーン(Graham Greene)で,後に同名の小説を出版(いわゆるノベライゼーション)。ただし,上のセリフはグリーンのオリジナルではなく,撮影中にオーソン・ウェルズの発案で追加したものだといわれる。

the Borgias 「ボルジア家」(the + 人名s は「~家の人々」「~夫妻」)は15~16世紀のイタリア貴族で政界のみならずローマ教会をも牛耳った。チェザーレ・ボルジアやルクレチア・ボルジアが有名。チェザーレは権謀術数ということばを絵に描いたような人物だから批判も多いが,逆から見れば天才的政治家でもあった。マキャベリの「君主論」は彼から着想を得たといわれる。


平和も民主主義も日常生活も退屈きわまりない。退屈きわまりないことが平和と民主主義と日常の不可分の属性でもある。できることなら,あしたすべてが変わってほしい。それを与えてくれるのは,天変地異や革命や白馬に乗った王子様や戦闘的美少女や,どれでもいいのだが,混乱と激動,疾風と怒濤こそが自分を根底から変えてくれるのではないか,そういう願望を若い一時期に誰もが感じるだろう。

もちろん,そんなものは都合よく現れるはずもないし,そういう願望はカルト集団におけるハルマゲドン待望とたいして変わりはしない。だが,現れるはずもないとわかってはいても,それを願望する側はそれなりに切実である。

 

それにしても,社会の混乱がすぐれた芸術やら進歩を生み出すというのはほんとうだろうか?実例もいっぱいあるが,反例もいっぱいあげられるような気がする。

戦国時代は日本の歴史の中でももっとも混乱した時代と言えるだろうが,その中から絢爛たる桃山文化が生まれた。しかし,それに続く徳川265年の泰平の世だって,歌舞伎と浮世絵,芭蕉と近松と西鶴,国学・蘭学などの藝術・学藝を生んだではないか。

戦争や軍事が科学技術を発展させるという考え方も,少なくとも80年代の日本の技術がアメリカやソ連という軍事大国の技術を凌駕しえたという事実だけをもってしても,神話とみなすことができるだろう。

 

だが,江戸時代はそれほど平和で退屈な時代だったのか,平和を謳歌する戦後の日本は冷戦という戦争をうまく利用できる立場にはなかったのだろうか?平和な大地の一層下で混乱したマグマが渦巻いてはいなかったのか?

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

夏の終わり

8月
2009
23
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一年でいちばん好きな季節は,と聞かれればやはり夏と答えるだろう。暑いのが苦手という人は多いが,ぼくは嫌いではない。寒いとひたすらちぢこまって,あげくには何ごとにもやる気を失ってしまうことも多い。その点,強烈な日射しの中で,全身に汗をふきだすのを感じながら歩いていると,確かにこれも頭がボーッとしてはくるのだが,内側から何か沸騰し始めるものがある。その生々しさ,躍動のようなものが好きなのだと思う。

 

といっても仕事がら,夏には夏期講習というやつでたいていは時間を取られる。昨今の少子化やらなんたらで,授業の数は減っているが,それでも週単位で予習―授業がやって来るレギュラーの学期とは違い,一日一日授業が変わるというペースはそれなりに苦労する。

今年の夏は,やたらと出来る生徒に出会った。東大理Ⅰ志望だという。

かりに明日が入試の日だとしても受かるだろうな,と思わせるだけの力がある。知識も,あちこち抜けがあるとはいえ,ふつうの出来る生徒をはるかにしのいでいるし,なにより理解力がずば抜けている。何が重要なのかを見抜く力もある。

時々,説明の中にちょっとしたコツのようなものを何気なく混ぜ込むことがある。板書するほどでもないし,そのコツがなぜだいじなのかを語り始めると長くなって,本題の説明を阻害してしまうから軽く触れるだけである。ふつうの生徒はただ聞いているだけなのだが,彼はちゃんとメモを取っている。板書されたもの=「だいじなこと」と考えている学生が多い中で,こういう学生は案外少ないのである。「話を聴く」と「ノートを取る」のあいだのバランスとタイミングはなかなかむずかしいから,そこがうまい生徒はそれだけで「頭の良し悪し」が透けて見えてしまう。

 

この生徒の話に限らないが,「出来る生徒」が「結果」が出せないこともある。原因は学力的なことよりもむしろ,家族,恋愛,将来への不安やら疑念やら煩悶であることが多い。漠然とした実存的不安かもしれない。18歳の若者の一年なのだから,当然といえば当然で,どこかの時点で誰もが通った道である。誰もが通る以上,「すべてを捨てて勉強に」という説教はあまり意味がないだろう。そうした「悩み」が原因で生じる失敗は,失敗とは呼べないとぼくは思う。本人がそれを失敗と感じてしまうなら,そう感じるに至ったことが人生としての失敗ではないのか。

 

かくして仕事としての夏は終わった。残りの夏がぼくの夏だ。どこに行くというわけでもないけどね。

 

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by rickie | Posted in 雑記 | No Comments »

If you hate a person, you hate something in him that is part of yourself. What isn’t part of ourselves doesn’t disturb us. (Hermann Hesse)

7月
2009
27
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「君が誰かに憎しみを感じているのなら,それは彼の中にある,君自身の一部を憎んでいるのだ。自分の一部ではないものは,私たちの心を乱したりはしないものである。」 (ヘルマン・ヘッセ)

 


 

「デミアン」(Demian) の一節。

something in him that is part of yourself において,関係代名詞 that の先行詞はsomething。「君自身の一部でもある何か,それが彼の中にもあってそれを憎む」ということ。

 


好きな自分と嫌いな自分がいる。

でも,嫌いな自分など,見たくはないし,見せられたくもない。

 

好きな人と嫌いな人がいる。

好きな人といっしょにいると,好きな自分を見せてくれる。

嫌いな人といっしょにいると,嫌いな自分を見せつけられる。

 

ってなところか。

 

ヘッセが好きだったのは,中学生の頃だ。「デミアン」もその頃読んでいる。

好きといっても,単なる青春小説として読んでいたような気がする。大学生くらいが主人公の青春後期小説(いま作ったことばだが)ではなく,青春前期小説である。いつの時代にもある,大昔なら石坂洋次郎みたいなやつ。今ならば誰だろう。綿矢りさ?島本理生?作者が若いというだけか。あさのあつこ?いや,ケータイ小説があったか...

 

上のヘッセのことばを「デミアン」で知ったのかどうか,記憶ははっきりしない。でも,そのことばの思想にはずいぶん昔からなじんできたような気がする。今自分が感じている憎しみ,嫌悪は,結局彼のせいではなく,自分の中に淵源があるものにすぎない。他人に責任を押しつける方が楽だから,こういうものの考え方は精神衛生上よろしくないように見えるかもしれないが,そうでもない。他人を憎むことも十分ストレスであり,人によっては自分で背負った方が楽な場合もある。

そんなふうに思ってきたのだが,さてそれも結局,背負っている自分の姿に悦に入っているだけではなかったのか。まあ,そこから先は堂々巡り,無限の穴掘りになってしまうので,とっとと切り上げよう。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

That is to say, happiness at home is the root of all evils. (DAZAI Osamu)

7月
2009
13
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「曰(いわ)く、家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」 (『家庭の幸福』 太宰治)

日本語原文は青空文庫にある。

拙訳。「家庭の幸福」は domestic happiness としようかとも思ったが,どちらで訳しても「自国の幸福」とも読める。そう読むと,このことばの別の含蓄が拡がっていくのだが,ありきたりのナショナリズム批判になってしまうかもしれない。


 

「名言」の中には,人々の賛同を得られないものもある。これも好き嫌いがはっきりと分かれるものかもしれない。

これを嫌う人は,まったく意味がわからない人か,さもなければ身に染みてわかっているのに賛意を表するのははばかられる人であろう。反対に,このことばに同意する人のほうも,留保なしに大きくうなずく人と苦笑いをこめて肯定する人に分かれる。

積極的反対派,つまり太宰のことばを全否定する人は幸福な人,または,鈍感な人であり,鈍感さは幸福であるのに必要な資質と言えそうだから,いずれにしても幸福なのだろう。積極的賛成派,つまり全肯定する人は不幸な子どもである(実年齢は問わず)。多かれ少なかれ,子どもはみな不幸であるが。

結局こういうことばには,大人は全肯定も全否定もしない,できない。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

Cheerfulness might be a sign of ruin; while in gloom, you have some hope, your family name or yourself. (DAZAI Osamu)

6月
2009
29
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「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」(太宰治)

太宰治(1909-1948)が,書店ではブームです。今年は生誕百年で,また昨年で死後60年の著作権切れを迎えて著作権フリーになったせいか,太宰の本が本屋のあちこちに並んでいます。一般読者の中から自然に盛り上がったブームというよりも,出版界が盛り上げたいと思って仕掛けているブームのようです。

引用は,「右大臣実朝」(1943)の有名な一節。拙訳です。太宰の研究者は海外にもいるようですから,きっとどこかに定訳があるのだと思いますが,ネット上には見当たらず,それ以上探す手間を惜しんでしまいました。

いろいろ考えたのですが,結局直訳っぽくなってしまいました。 "you have some hope" のところが気に入りません。もっといいのないでしょうか?

このセリフは平家について述べたものですが,戦時中から戦後にかけての日本が二重写しになっているのはいうまでもないでしょう。

 

太宰といえば思い出すのは,高校三年生の夏,受験勉強などそっちのけで,当時筑摩書房で出ていた太宰全集を一冊ずつ買い集めては,一日一冊ずつ読んでいた暑い暑い夏休みのことです。太宰に満腹すると,ドストエフスキー。明け方までかかって読んでは,早朝の目黒から世田谷にかけての街を一,二時間歩き回ってから床につく,という生活でした。歩き回れば,体は暑さにまみれても,頭は少し冷えるわけです。あまりにも,ひと昔前のありきたりの青年というかんじです。「暗い」といえば「暗い」のでしょうが,そんな時に上の太宰の言葉を繰り返すわけです。

 

確かに明るさや燥ぎ(はしゃぎ)が病的に見える時があります。あまりにもせっぱつまってしまい,明るく振る舞うしかない,意味もなく浮かれることも,きっと誰もが経験することでしょう。燥いでいるその姿が哀れに見えることも。でも,暗さもきっと,そこに希望がほの見えることを保証はしないでしょう。救済しようのない暗さというものもきっとあるのだと思います。さいわい,そこまでの経験はないわけですが。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

Love does not consist in gazing at each other, but in looking together in the same direction. (Antoine de Saint-Exupéry)

6月
2009
15
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「愛の本質は見つめ合うことにはない。いっしょに同じ方向を見ることにある。」 (アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ)

 


サンテグジュペリ(1900-1944)はフランスの小説家。もともとパイロットであり,パイロットとして第二次大戦中に死亡。「星の王子様」(Le Petit Prince)で有名。

 

  • consist in ~   「(特徴・本質などが)~にある」
  • gaze    to look steadily at somebody/something  for a long time, either because you are very interested or surprised, or because you are thinking of something else (OALD)
  • in ~ direction    「~の方向に(へ)」 to ~ direction ではない。

 


 

「見つめ合うのは愛じゃない」と言っているわけではありません。見つめ合うだけでは愛じゃない,と言っているのでしょう(だから,「本質」なんてよけいな訳語を付け加えてしまった)。

でも,愛の甘美さの由縁の多くは見つめあうことから来ているわけで,燦々と降り注ぐ陽光の下,ふたりが目を輝かせて海の彼方を見つめている,そんな文部科学省推薦青春映画のひとコマみたいな愛がホントにあるのかいな,とも思います。

見つめ合うだけの愛はやがて終わる,ということなら言えるかもしれません。そして「見つめ合うだけ」が終わった後,お互いにそっぽを向きながら視線を避け合うというのがよくありがちな成り行きでしょう。だとすれば,「見つめ合うだけ」が終わった後に,「いっしょに同じ方向をみる」のはなかなかたいへんなことで,たいへんだからこそ価値あることなのかもしれません。でも,「いっしょに同じ方向を見てるだけ」を愛と呼ぶのか,という疑問も残りますが。

逆に「視線に憎しみをこめて見つめ合う」というのは,「見つめ合うだけの愛」によく似ています。愛にせよ,憎しみにせよ,「見つめ合う」ことには魔力のようなものがありそうです。よく言われるように,愛の反対語は憎しみではなく,無関心だというのも真実に近いのでしょう。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

Experience is the worst teacher; it gives the test before presenting the lesson. (Vernon Law)

6月
2009
8
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「経験というやつは,教師としては最悪だ。授業をする前にテストをする」(バーノン・ロー)

 


 

バーノン・ローは,1950年代~60年代にかけてアメリカ大リーグで活躍した投手。

test は「試練」, lesson は「教訓」という意味にもなる。そちらで読めば,あまりにも当たり前に「試練の後に教訓を得る」ということ。

なお,英語版ウィキペディアでは,このことばは,"Experience is a hard teacher because she gives the test first, the lesson afterwards." となっている。趣旨は同じ。

 


 

もちろん何の準備も心構えもできていないからこそ,事件は体験となり衝撃となるのでしょう。試練があるからこそ教訓を得られるわけで,先に教訓を教わっていたら,試練は試練ではなく,ただのできごとになります。

Experience is not what happens to a man. It is what a man does with what happens to him. 「経験とは人に起きることを言うのではない。人に起きることにどう対処するかを言う。」

こちらは,オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley)のことば。できごとそれ自体は経験ではない。できごとにどう抗(あらが)い,どのようなlessonをひきだせるのか,そこに出来事を「経験」に変えられるのかどうかが,かかっているようです。ハクスリーは, Experience teaches only the teachable. 「経験が教育できるのは,教育可能な者だけである」とも言っています。数多くの出来事に遭遇してもあまり賢明ではない人もいます。

逆に,教訓だけでも「経験」とは呼べないでしょう。lesson だけ受けて test にさらされないと,lesson はただの厚みのないことばになってしまいます。テストをいっぱい受けろってことではありませんが。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

If an elderly but distinguished scientist says that something is possible he is almost certainly right, but if he says that it is impossible he is very probably wrong. (Arthur C. Clarke)

3月
2009
10
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「年はとっているが高名な科学者が,しかじかのことはある得ることだと述べる場合,彼はほぼ確実に正しい。しかし,そんなことはあり得ないと言う場合には,おそらく彼は間違っている。」 (アーサー C. クラーク)

  • elderly   「お年寄りの」 old の婉曲語
  • distinguished  「すぐれた,著名な」

 

年をとるとともに,人は知識と経験と自信とを積み上げていく(ものだと思われている)。そのうちの幸運な人は,さらに評判・名声・信頼,場合によっては財産も獲得できる。そうやって達人やら名人やら師匠やら権威やら,つまり成功者として自らを確立できるわけだ。しかしそのように得た成功報酬は,同時に彼にとっての限界となる。守らねばならない壁であり,自らを閉じ込める牢獄である。だから,それを打ち壊しにかかっていると彼(または彼女)が考えるものに対しては,本能的に反応する。「そんなことはありえない。」

もちろん,ものわかりがいい権威というものも,あまりありがたくはない。若者にとっては,いどみかかる壁は高い方がいい。「そんなことはありえない」と言われて,すぐにかしこまってしまうような主張ならば,それはやはり「ありえない」のだ。壁は,人間がこれまでに積み上げてきた知識や経験の総体なのだから,かんたんに壊れてしまっても困る。壁が壊れれば,その壁の中で暮らしている人類全体のダメージがあるかもしれないのだ。

問題は,権威には常に権力がつきものであるということかもしれない。といって,権力を持たない権威というものも存在しないのだが。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

Every vice you destroy has a corresponding virtue, which perishes along with it. (Anatole France)

11月
2008
25
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「あなたが滅ぼす悪癖の一つ一つには,それと表裏一体に美点がはり付いていて,それも一緒に消滅してしまう。」

(アナトール・フランス 『エピクロスの園』)

  • vice 「悪」「欠点」 ←→ virtue 「善」「長所」
  • correspond 「対応する」
  • perish  「滅びる,死ぬ,消え去る」
  • along with ~ 「~といっしょに」

フランス語原文は À chaque vice qu’on détruit correspondait une vertu qui périt avec lui.

 

vice と virtue には個人の欠点・長所という意味と,道徳的な悪と善という意味の両方があります。

前者の意で,欠点を矯正すれば,長所もまた喪われる,というふうに解すれば,人の欠点はすなわち長所でもある,欠点をなくそうとしてはいけない,それによって長所も消えてしまうのだから,そういう理屈になるでしょう。まあ,よく言われることではあります。

もっとも,この vice と virtue は個人の欠点と長所のことより,世にある悪と善のことを言っているようです。その理解では,善が善たるためには悪が存在しなければならない,という意味になります。

この項を岩波文庫版から引用すると,以下のようになります。

悪は必要である。悪が存在しなかったら,善もまた存在しないであろう。悪は善であることの唯一の理由である。危険から遠いところでは勇気が何であろうか?苦痛なくして哀れみが何であろうか?

献身も犠牲もあまねき幸福の真只中にあってはどうなるであろうか? 悪徳なくして徳を,憎悪なくして愛を,醜なくして美を考えることができようか?地球が住めるものであり人生が生きるだけの価値があるのは悪と苦悩とのおかげなのである。されば悪魔についてあまり嘆いてはいけない。悪魔は偉大な芸術家であり偉大な学者なので,少なくとも世界の半分は悪魔が造ったのだ。そしてこの半分は他の半分の中に緊密に嵌めこまれているので,前者を傷つければその同じ打撃によって後者に同様の損害を与えることにならずにはいない。一つの悪徳が破壊されると,それに照応して,それとともに一つの徳が滅びる。

『エピクロスの園』 アナトール・フランス (大塚幸男 訳)

「悪の魅力」というと誤解されそうですが,少なくとも,悪のない世界はこの上なく退屈な世界になるでしょう。善が輝き続けるためには,どこからか悪を供給しなければならないのですが,仕入れ先が減ってくると善そのものが痩せ細ってしまいます。

時々,若者の中に戦争待望の声が聞こえることがあります。大人はそれを保守化傾向のあらわれのように語ったりしますが,わたしには右も左も関係ないように思えます。平和しかない世の中は退屈きわまりなく,どこからか戦争を仕込んできたくなるのは当たり前でしょう。海の向こうの戦争・「語り継がれる」戦争・仮想現実の中の戦争,そのへんで我慢するしかないよ,いい歳した大人としてはそれくらいしか言えません。

この世には悪があった方がいい,ただしそれが我が身に降りかかってさえこなければ。本音はだいたいそんなところでしょうか。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

Nothing is more dangerous than an idea, when you have only one idea. (Alain)

11月
2008
3
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「思想ほど危険なものはない,ひとつしか持っていない時は。」

フランスの哲学者アランのことば。フランス語原文はこんなかんじです。

Rien n’est plus dangereux qu’une idée quand on a qu’une idée.  (Propos sur la religion)

idea (idée も)はちょっとおおげさに「思想」と訳すこともできますし,「考え方」くらいで訳すこともできます。

「思想」とは,世の中のありとあらゆることについての自分のものの見方の核心,それを通して他人・自分・世界を見る窓のようなものと理解しておきます。凝り固まったものの考え方はあぶない,というのは常識的にも理解しやすいと思います。

でも,ひとつの凝り固まった思想は,自分に対しては確信や信念をもたらしてくれますし,他人からは,ゆるぎない自信にあふれているように見えます。病を癒すことさえあります。

Nothing is more powerful than an idea, when you have only one idea.

といってもいいわけです。

複眼的思考が大切,と気楽に言ったりしますが,そんなにかんたんに複眼(to have more than one idea)を持つことはできません。相反する考え方を同時にできるなら,誰に対しても憤ることもないでしょうが,そんなことができるでしょうか。できたとしても「正しさ」に近づくことができやすい代わりに,「確信」を失ってしまいます。しばしば自信のなさ,自己卑下に陥り,またそうでなくても単眼と戦えば敗北は必至でしょう。

それでも「危険」であることには変わりありません。単眼の正しさを保証してくれるものは単眼自身には存在せず,複眼を持ち合わせることしかありません。人生で,あるいは歴史の中で,数少ない時期には脇目もふらず単眼で生きねばならない時もあるとは思いますが。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

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