夏の終わり

一年でいちばん好きな季節は,と聞かれればやはり夏と答えるだろう。暑いのが苦手という人は多いが,ぼくは嫌いではない。寒いとひたすらちぢこまって,あげくには何ごとにもやる気を失ってしまうことも多い。その点,強烈な日射しの中で,全身に汗をふきだすのを感じながら歩いていると,確かにこれも頭がボーッとしてはくるのだが,内側から何か沸騰し始めるものがある。その生々しさ,躍動のようなものが好きなのだと思う。

 

といっても仕事がら,夏には夏期講習というやつでたいていは時間を取られる。昨今の少子化やらなんたらで,授業の数は減っているが,それでも週単位で予習―授業がやって来るレギュラーの学期とは違い,一日一日授業が変わるというペースはそれなりに苦労する。

今年の夏は,やたらと出来る生徒に出会った。東大理Ⅰ志望だという。

かりに明日が入試の日だとしても受かるだろうな,と思わせるだけの力がある。知識も,あちこち抜けがあるとはいえ,ふつうの出来る生徒をはるかにしのいでいるし,なにより理解力がずば抜けている。何が重要なのかを見抜く力もある。

時々,説明の中にちょっとしたコツのようなものを何気なく混ぜ込むことがある。板書するほどでもないし,そのコツがなぜだいじなのかを語り始めると長くなって,本題の説明を阻害してしまうから軽く触れるだけである。ふつうの生徒はただ聞いているだけなのだが,彼はちゃんとメモを取っている。板書されたもの=「だいじなこと」と考えている学生が多い中で,こういう学生は案外少ないのである。「話を聴く」と「ノートを取る」のあいだのバランスとタイミングはなかなかむずかしいから,そこがうまい生徒はそれだけで「頭の良し悪し」が透けて見えてしまう。

 

この生徒の話に限らないが,「出来る生徒」が「結果」が出せないこともある。原因は学力的なことよりもむしろ,家族,恋愛,将来への不安やら疑念やら煩悶であることが多い。漠然とした実存的不安かもしれない。18歳の若者の一年なのだから,当然といえば当然で,どこかの時点で誰もが通った道である。誰もが通る以上,「すべてを捨てて勉強に」という説教はあまり意味がないだろう。そうした「悩み」が原因で生じる失敗は,失敗とは呼べないとぼくは思う。本人がそれを失敗と感じてしまうなら,そう感じるに至ったことが人生としての失敗ではないのか。

 

かくして仕事としての夏は終わった。残りの夏がぼくの夏だ。どこに行くというわけでもないけどね。

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