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Nothing is more dangerous than an idea, when you have only one idea. (Alain)

11月
2008
3
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「思想ほど危険なものはない,ひとつしか持っていない時は。」

フランスの哲学者アランのことば。フランス語原文はこんなかんじです。

Rien n’est plus dangereux qu’une idée quand on a qu’une idée.  (Propos sur la religion)

idea (idée も)はちょっとおおげさに「思想」と訳すこともできますし,「考え方」くらいで訳すこともできます。

「思想」とは,世の中のありとあらゆることについての自分のものの見方の核心,それを通して他人・自分・世界を見る窓のようなものと理解しておきます。凝り固まったものの考え方はあぶない,というのは常識的にも理解しやすいと思います。

でも,ひとつの凝り固まった思想は,自分に対しては確信や信念をもたらしてくれますし,他人からは,ゆるぎない自信にあふれているように見えます。病を癒すことさえあります。

Nothing is more powerful than an idea, when you have only one idea.

といってもいいわけです。

複眼的思考が大切,と気楽に言ったりしますが,そんなにかんたんに複眼(to have more than one idea)を持つことはできません。相反する考え方を同時にできるなら,誰に対しても憤ることもないでしょうが,そんなことができるでしょうか。できたとしても「正しさ」に近づくことができやすい代わりに,「確信」を失ってしまいます。しばしば自信のなさ,自己卑下に陥り,またそうでなくても単眼と戦えば敗北は必至でしょう。

それでも「危険」であることには変わりありません。単眼の正しさを保証してくれるものは単眼自身には存在せず,複眼を持ち合わせることしかありません。人生で,あるいは歴史の中で,数少ない時期には脇目もふらず単眼で生きねばならない時もあるとは思いますが。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

Never do today what you can put off till tomorrow. (Punch)

7月
2008
21
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「明日まで延ばせることを今日やるな」

Punch はイギリスのユーモア・風刺をメインにした雑誌。19世紀に発刊され,比較的最近まで出ていたらしい。上の言葉は1849年に初出。もちろん,Never put off till tomorrow what may be done today. ( Don’t put off till tomorrow what you can do today. の形もよく見る) 「今日できることを明日まで延ばすな」という諺のもじりです。

ついでに,この元祖の方の諺と類似した諺を列挙すると,

  • Make hay while the sun shines.  
    日が照っているうちに干し草を干せ。(チャンスは逃すな)
  • Gather ye rosebuds while ye may.  
    摘める時につぼみを摘め。(若いうちに楽しんでおけ。命短し,恋せよ乙女? ye は古語で「汝ら」という呼びかけ)
  • Tomorrow never comes.  
    明日という日は来ない。
  • What may be done at any time is done at no time.  
    いつでもできることはいつでもできない。
  • Procrastination is the thief of time.  
    ぐずぐずは時間泥棒。

どれもわたしのようなダラダラ人間には耳が痛い言葉で,だから Punch のことばの方が安心できるというか,既に実行済み,いつもやってるよというか…。その結果が今のていたらくなわけですが。

「明日まで延ばせること」はたいていの場合あさってまで延ばせるわけで,ということはいつまでも何もしないままということになります。逆に「今日できる」(でも今日やらなくてもよい)ことを今日やってしまうと,やることはどんどん膨れ上がってホントはやらなくてもいいことまで引き受けてしまうことになりかねません。達成感は大きいのだろうけど,達成感を得るためだけに何かを達成するというのもねえ。「今がんばって歳取ってから楽に暮らすという生き方をするくらいなら,なぜ今楽に暮らさないの?」と言ったという南海の小島の住人をわたしは支持します。

以上,怠け者による怠惰の合理化でした。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

At fifty, everyone has the face he deserves. (George Orwell)

7月
2008
7
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「50ともなれば誰でも自分にふさわしい顔を持つものだ」(ジョージ・オーウェル)

さらに,

Every man over forty is responsible for his face. (Abraham Lincoln)

「40を越えた男は誰でも自分の顔に責任がある。」(エイブラハム・リンカーン)

 

顔に責任を持てと言われてもねぇ。幾つになっても責任を取るなんてまっぴらごめんだという顔もあれば,生まれたときからすすんで責任を取りたくなる顔もある。私はもちろん前者だし,たいていの人(少なくとも男)はそういうものだ,と期待したい。

だいたい,年を取れば取るほどかつての父親の顔に似てきたような気がする。父親はコンパスで描いたような丸顔だった。どうも丸顔の年寄りは据わりが悪いような気がする。この顔のまま老人になっていくのは気が重い。年を取ってからの方がDNAの呪縛がきつくなるとすれば,責任など取りようがないではないか。

トイレなどで見かける若い人たちは,鏡に向かって延々と髪などをああでもないといじっていて,「自分の顔をよくそんなにしげしげと見つめられるものですね」と声をかけたくなることがあるが,鏡であれ写真であれ,自分の顔というものにどうしようもない異和感を感じている人は多いだろうと思う。嫌悪感というのとはちがう(なくもないが)。自分の外側に自分がつきつけられてしまうと,どうも落ち着かない,いたたまれない。鏡にはできるだけ近づきたくないし,自分の顔が見えたなら一刻も早く逃げ出したくなる。

もちろん,とっくにこの顔を受け入れてはいる。受け入れてはいるが,なじんでいるわけではない。

リンカーン説を採るにせよ,オーウェル説に立つにせよ,40, 50 になって自分の顔と和解できるわけではない。自分の顔にいだく異和感に慣れるだけだ。その慣れを責任とは呼べないかもしれないが,その異和感自体が「自分にふさわしい」ぐらいには感じることができる。

 

でも,この眉毛とたれ目は何とかならないものか。それと頬をもう少しすっきり。それとほうれい線。あと,・・・・

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

The opposite of love is not hate, it’s indifference. (Elie Wiesel)

7月
2008
2
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エリ・ヴィーゼルは,ユダヤ系(アメリカ在住)の作家。ホロコースト体験者でその体験を小説化した。1986年ノーベル平和賞受賞。

少し長めの引用は次のとおり。

The opposite of love is not hate, it’s indifference. The opposite of art is not ugliness, it’s indifference. The opposite of faith is not heresy, it’s indifference. And the opposite of life is not death, it’s indifference.

英語の解説は必要ないですね。

ホントは Graham Greene (グレアム・グリーン)の "The Human Factor" のことばを持ってくる予定だったんだけど,その文句が見当たらなくて,しかたなく似たのを探していたらこんなのにぶつかったというわけ。

グリーンの言葉は確か「理想の敵は偏見ではなく無関心だ。偏見は理想に近い。」というような内容だったと思うのだが,「無関心だ」の部分は記憶に自信がありません。「ヒューマン・ファクター」という小説はイギリスの駐アフリカ(のどこか)大使館に派遣された MI6 の諜報員が現地のアフリカ人女性と結婚し,ソ連の二重スパイとして働くというストーリーだったと思います。「理想の反対うんぬん」の文は,人種差別についての文脈中に出てきた,と思う。(曖昧な記憶ばかりですいません)

理想や愛や美や信仰や生の対立物は,偏見や憎悪や醜や異教や死ではなくて,無関心である。こういう言い方はとりあえず承認してもよい気がする。左翼(右翼)の敵は右翼(左翼)ではなく無関心だ,ならもっとわかりやすいかもしれない。現に,偏見がある瞬間突然に理想へと変わる,という出来事に遭遇するのはよくあることだし,憎しみが愛に変わるなんてのはほとんどありふれたエピソードにすぎない。

偏見を理想(または偏見)の側へと導く作業をわたしたちは啓蒙と呼んだりしているわけだが,啓蒙のことばは無関心には届かない。あるいは,ことばが届かないものを無関心と呼ぶ。無関心は中立ではなく,二項対立をうちこわす第三項でもない。悪意はないが,寛容でもない。おまけに,無関心は無関心であるがゆえに,非難するだけむだというものだ。

もっともたいていの無関心はそれほどピュアでかたくなな無関心ではなく,ちょっと揺さぶってみればたやすくどちらかに転んでしまうような場合も多い。無関心を装うことや,自ら選び取った無関心も無関心とは言えまい。

しかし,ホントに無関心は非難すべき敵なのか。

無関心を責める言説の傲慢さとか,無関心は非・無関心の側の敗北だとか,非・無関心側への無言の抵抗だとかいう語り口のことをいっているのではない(それはある意味自明のことだ)。無関心そのものに何かの価値ってないのだろうか。

 

まとまんねえ~。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

I hate television. I hate it as much as peanuts. But I can’t stop eating peanuts. (Orson Wells)

6月
2008
24
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「わたしはテレビが嫌いだ。ピーナッツと同じくらい。でもピーナッツを食べるとやめられないのだ。」

オーソン・ウェルズ(1915-1985)はアメリカの俳優・脚本家・映画監督。「市民ケーン」がいちばん有名かな。若い頃,「火星人襲来」というラジオドラマを制作し,それがあまりにリアルだったので,ほんとの話だと思った人が続出して全米がパニックになった,というエピソードもよく知られています。

さて,こういう文句は数学の恒等式のようなもので,「テレビ」というところに「アルコール」「たばこ」,いろんな趣味・嗜好・性癖・習慣・習性・中毒,何を代入しても成り立ってしまいそうで,たいした意味はなさそうなのです。

それはともかくテレビというのはやっかいなものです。わたしもテレビは見てしまう方で,人々が「くだらない」のひとことでかたづけるバラエティやらドラマなども見ちゃいますね。「いいとも」とか「検索ちゃん」とか。2時間ドラマなんて,始まってから20分後には犯人がわかってしまうのに,でも最後まで見ることが多いな。これまでテレビに費やしてきた時間をもっと有益なことに使っていればどれほど人生が輝いていたことかと,思わぬ訳ではありません。でもきっとテレビを見なくても,ろくな時間の使い方はしなかっただろうな。いまやテレビ以外の娯楽は山ほどあります。

なぜ人は特に見たいと思ってもいないテレビを見てしまうのか。家族がいるといないとではまた事情が違ってきますが,「見ないと周囲の話題についていけない」「時間つぶし」。いろいろと言われてきましたが,どれも言えてるようでいて,いまひとつ理由としてはしっくりきません。きっとテレビをつける理由などないのだが,消す理由もない,ということなのでしょう。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

You don’t understand anything until you learn it more than one way. (Marvin Minsky)

6月
2008
9
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「どんなものであれ,複数の方法で学んでみないと理解できないものだ」

マービン・ミンスキーは人工知能研究で有名な認知科学者。

  • not … until ~ 構文 「~してはじめて・・・する」
  • more than one + 単数名詞 「複数の~」 英語で X is more than three. といえば,「 x ≧ 3 」ではなく「 x > 3 」を意味する。

何かを学ぼうとするとき,どこから手をつけたらいいのか。

どんな分野でも,「これが決定版。これしかない。これだけやっていれば他のものは無視していい。」と世間で言われている方法なり,テキストなり,流儀のようなものが存在しています。でもどうも僕はこれができないのですね。浮気性なのでしょうか。

最近ではすっかりご無沙汰なのですが,昔テニスをやったことがあります。やり始めた頃に,いくつかの「流派」のようなものに出会いました。ラケット面を立ててほぼ水平に振りぬく「フラット」,こころもちかぶせ気味に上へ振りぬく「トップスピン」,逆にラケットをやや下の方へ滑らせていくイメージの「スライス」。フラットはスピードの速い球を打てるし,トップスピンは安全性重視で,スライスは相手の球に押し込まれても対応できるなど,それぞれ長所があります。もちろん上級者であれば全部学べばいいわけですが,初心者はどこから入ったらいいのか。このへんの教え方は時代によっても流行りすたりがあるようなのですが,当時は(だいぶ前)トップスピンが初心者にも普及しだした頃だったと思います。でもぼくよりも前に始めていたうまい奴は美しくスライスを打っていて,ちょっとあこがれました。

結局トップスピン中心で学び始めたのは,流行りだったからというよりも,ある本の中で「テニスとは,ネットを越さねばならないと同時にラインを越えてはならない,つまりボールを打ち上げなければならないと同時にボールを落とさなければならない,という矛盾した要求を満たさねばならないスポーツだ」とかなんとかいうくだりを読んで,えらく納得しちゃったからなのですね。トップスピンはボールを打ち上げて振りぬく(つまりネットを越えやすい)のですが,同時にボールの進行方向に回転がかかり,この回転だとボールが落ちやすくなるのです。

結果的に流行に沿ったやり方に落ち着いたのですが,それは理屈の上でそのやり方に納得したからで,納得するためには他のやり方も検討してみないと,あれこれ浮気してみないとなかなか納得できないようです。

ひたすら決定版的な方法で学ぶこともとても大切なことだと思うのですが,自分が今学んでいる方法が,どういう位置におかれているのか,つまりどういう経緯でその方法が優れていると言われているのかを知っておくことも大切ではないかと思います。決定版にはそれが決定版だと言われるだけの根拠があるのでしょうが,たいていの分野で,反主流派的な方法論が存在していて,じつはそちらの方が将来の主流派になるかもしれません。主流派はただ惰性で主流派になりえている場合もあるかもしれません。

浮気しないと見えないものもあれば,貞節を保たないと得られないものもあるということになってしまいますが,そうなるとこれからその道(どの道じゃ?)に進もうとする人は首をかしげてしまうかもしれませんね。

いつもながら歯切れの悪い物言いになりましたが,歯切れのいい語り口はあまり信じていないもので。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

Loving a person is being willing to grow old with that person. (Albert Camus)

6月
2008
3
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「人を愛するとは,その人とともに年老いていくことを受け入れることだ」

be willing to V  「よろこんで(すすんで)Vする」

カミュの「カリギュラ」(”Caligula”)の中のことば。カリギュラとはネロと並んで暴君として有名な古代ローマの皇帝。上のことばはカミュのこの戯曲の中でカリギュラが最後近くで述べるセリフにあります。フランス語原文を引こうと思って本を探したのですが,どこかに埋もれているらしく一時間近く探しても出てきません。上の英文は,そういうわけでネットで探した英訳からいただきました。まだ著作権切れてないと思うんですが,いいんですかね。being willing to のところは確か原文では accepter de になっていたと思います。

大学時代に同じ学科の連中と「読書会」と称するものを何回かやってました。で,誰が言い出したのか,「じゃ,次回は『カリギュラ』にしよう。みんな読んできてね。」ということになって,わたしとしては苦労して原文で読んでいったのですが,連中はみんな翻訳でお茶を濁して,ちょっとムカついたというか,原文で読んだ分(カミュのフランス語は概してやさしめ),優位に立ったというべきか...とにかくわたしの気に入ったセリフとして紹介したのが上の文です。

男性諸君は,「あっ,それ俺もいいと思った」とか何とか言って好評だったのですが,女子は一様に「え~っ,わたしはヤだな」という反応でした。

「老いる」「歳をとる」ということに対して,女性たちは男性にはうかがい知れない恐怖や反発があるようです。大学を出てからも女性たちのそういう感情に出会って驚くことが何度かあったように思います。

「その人とともに死ぬ」のであれば,現実にどうかは別として何か美しいロマンティシズムに彩られたことばになるのに,そして「その人とともに生きていく」はこれも美しい決断として輝くかもしれないのに,「その人とともに老いる」は,むろん人によって違うのでしょうが,概して若い女性にとっては目をつぶりたいことになってしまうようなのです。女性に限らないかもしれません。若いということは,歳をとるということが理解できない状態のことを言うのかもしれません。

この時代は特に「歳をとること」を忌避する時代のようです。歳をとることに恐怖を抱くだけでなく,歳をとっている人間も歳をとっている実感を失いつつあります。わたしも歳をとった気がぜんぜんしていません。今のところとりあえず健康を維持しているからなのでしょうが。

歳をとることは,性が脱色されて中性化していくこと,自分が歩いている先に死というゴールがしだいに見えてくること,時間が有限であることを思い知ることだと,ふつう理解されています。そうではなくてもっと単純に,歳をとることがどういうことなのかを自分が知らなかったことを知ることなのかもしれません。「心が若い人は,いつまでも歳をとらない」という言葉があったように思いますが,それを逆に解釈すれば「歳をとったということを自覚できない人は,いつまでも成熟できない」ということかもしれません。わたしも成熟できないひとりであることは言うまでもありませんが。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

If you love unrequitedly — i.e., if your love as love does not call forth love in return, if, through the vital expression of yourself as a loving person, you fail to become a loved person — then your love is impotent, it is a misfortune. (Karl Marx)

5月
2008
19
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「もしあなたの愛が報われないなら,つまり自分の愛に応えて相手の愛をよびおこすことがなければ,もし「愛する人」として自分を生き生きと表現することを通じて「愛される人」になることができなければ,あなたの愛は無力であり,それはひとつの不幸である。」 (カール・マルクス 『経済学・哲学草稿』 The Economic and Philosophical Manuscripts translated from German into English by Gregor Benton)

若きマルクスのロマンチックなことば。たぶんまったく有名ではありません。

この本を読んだのは確か中3か高1のはず。もちろん内容なんかろくに分かりはしないので,こういう文句だけ印象に残ったりするわけです。実際,ここ以外何も覚えていません。

なんであのマルクスが恋愛の話なんかしているかというと,これは「貨幣の物神性」とやらの話で,貨幣は何でも買えるがゆえに価値の転倒を引き起こし,すべてのものを交換し・混同させる,というくだりです。

He who can buy courage is brave, even if he is a coward. Money is not exchange for a particular quality, a particular thing, or for any particular one of the essential powers of man, but for the whole objective world of man and of nature.

勇気を金で買える者は,本人が憶病であっても勇敢となる。貨幣は特定の性質・物,人の持つ本質的な能力のどれか一つ特定のものとの交換手段なのではなく,人と自然の全客観的世界との交換手段なのである。

でも,人が人である世界(つまり貨幣が崇拝されていない世界)では,本来どうなのか,ということで冒頭の引用箇所が次の引用に後につながります。

If we assume man to be man, and his relation to the world to be a human one, then love can be exchanged only for love, trust for trust, and so on.

もし,人が人であり,人間と世界との関係がヒューマンなものであると想定するなら,愛は愛とだけ交換でき,信頼は信頼とだけ交換できるはずだ。

この「愛を愛とだけ交換する」という文句が,ガキの私にガンガンと響いたのでしょうね。そしていつものように,文脈を離れて拡張解釈して,「愛をお金と交換するのはよくないとして,顔かたち・見てくれ・才能その他もろもろと交換するのはどうなの?」と飛躍していきます。これらは貨幣とは異なってその人の本質的属性の一部なのだから関係ない,という言い方はお子ちゃまのわたしには理解できなかったのかもしれません。どんな世の中になろうが,愛は愛以外のものとも交換可能なのでしょう。

理論やら抽象的議論やらを文学的に読み替えてしまう癖は,今でも治っていません。文学的というよりは,ロマン主義的・感傷的・浪花節的...なのかな。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

Unexplained beauty arouses an irritation in me. (William Empson)

5月
2008
13
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「説明できない美は私をいらだたせる」 Seven Types of Ambiguity 『曖昧の七つの型』

直訳すると「説明されない美は私にいらだちをかき立てる」となりますが,要するに,「美は説明できないなんていわれるとムカつく」ってことです。

ウィリアム・エンプソンは(William Empson)は20世紀前半に活躍したイギリスの評論家・詩人。分析的でありながら,ことばに対する官能的なセンスを持ち合わせた人で,その点では後のロラン・バルトに似ていなくもないと言えます。

美は,芸術は説明できるのかと問われれば,最終的には説明できないと答えるしかないでしょうが,「最終的に」説明できないということと,ぜんぜんできないことは違います。「最終的に」できないのだからはじめからやっても無駄だ,とも思いません。語学などその最たるもので,ネイティブ並みの語学力なんか無理に決まっていますが,でも語学に意味がないなどとは言えないでしょう。

わたしはハウ・ツーもの,というか方法論ものが嫌いではありません。「映画の撮り方」(画面をどう構成するか,どう動かすか,コマ割りのしかたなど),「写真の撮り方」(フレーム・フォーカス・露出などなど),「小説の書き方」(人物・文体・視点・葛藤などなどなど)。それも分析的なものほどおもしろいですね。なにごとにつけ,神秘化してしまう言説は好きではありません。「人間が・女が書けていない」とか天からのご託宣のような評論ではなく,「センス」「雰囲気」で片づけてしまう半端な議論でもなく,美が発生するメカニズムを精緻に語ってほしいわけです。もちろん,それは一種の解体作業であって,解剖によってすべてが解き明かされるわけではないでしょう。そんなことは百も承知した上で,解剖に解剖を重ねてそれでも解明できないものを「美」と呼んだ方がいいのではないかと思ったりするのですね。

引用箇所が出てくる文脈は以下のとうりです。訳はいつものように拙訳です。

A first-rate wine-taster may only taste small amounts of wine, for fear of disturbing his palate, and I dare say it would really be unwise for an appreciative critic to use his intelligence too freely ; but there is no reason why these specialised habits should be imposed on the ordinary drinker or reader. Specialists usually have a strong Trades Union sense, and critics have been perhaps too willing to insist that the operation of poetry is something magical, to which only their own method of incantation can be applied, or like the growth of a flower, which it would be folly to allow analysis to destroy by digging the roots up and crushing out the juices into the light of day. Critics, as ‘barking dogs’ on this view, are of two sorts: those who merely relieve themselves against the flower of beauty, and those, less continent, who afterwards scratch it up. I myself, I must confess, aspire to the second of these classes; unexplained beauty arouses an irritation in me, a sense that this would be a good place to scratch;

一流のソムリエは自分の口を鈍らせないようにするために,ワインをほんのちょっとしか味見しないが,鋭い批評家も知性を自由に発揮しすぎるのはまあ賢明ではなかろう。だが,こうした専門家的習性を普通の酒飲みや読者にまで押しつけていい理由はない。専門家というものはたいてい強い組合意識を持っているものであり,評論家も,「詩が及ぼす作用というものは魔法みたいなもので,わたしのやり方の呪文しか使えないのだ」とか「詩は花の成長に似て,分析と称して根を掘り起こしたり,花の蜜を絞りだし白日にさらしたりして台無しにするのはぱかげている」とあまりにも主張しがちである。この見方では,評論家は「吠える犬」と同様,二種類に分かれる。一つは単に美しい花に小便をひっかけるだけの者たちであり,もう一つはその後で花をほじくり出す自制心のない者たちである。私自身は後者でありたいと望んでいることを告白せねばならない。説明できない美は私にいら立ちを,ここはほじくるにはうってつけの場所だという感じをかき立てるのである。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

Rose is a rose is a rose is a rose, is a rose. (Gertrude Stein)

5月
2008
6
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「バラはバラであって,バラ以外のなにものでもない」

有名な文句です。文法をぶち壊しているのところが,名文句たるゆえんの一つでしょう。

最初の出典は,ガートルード・スタイン(Gertrude Stein)の詩  Sacred Emily の一節ですが,彼女自身もお気に入りの言葉だったらしく何度かこの言葉に触れていて,最初の rose に a がつくバージョンや,rose の数が違っているバージョンもあるようです。スタインはアメリカ生まれで,のちにパリへ移住して長いあいだそこで暮らします。 “America is my country, but Paris is my hometown.” ということばも有名です。20世紀前半の代表的なというか,異色のというか詩人・作家です。第一次大戦から戦間期にかけてのパリは,世界中から芸術家たちの集まった芸術の首都であり,彼女が交流した人もピカソ,マチスらの絵描き,ヘミングウェイ,パウンドらの小説家,詩人など多岐にわたります。ヘミングウェイらを Lost Generation と呼んだのも彼女だとされています。

有名な文句ですから,あちらこちらで引用されたり,改作されたりしています。私がきづいたものでは確か,Chaplin の「殺人狂時代」(だったかな?)の中のセリフとして使われていましたし,イギリスの元首相マーガレット・サッチャーは,”A crime is a crime is a crime.”と言ったそうです。Google で適当に検索してみると,たとえば “A child is a child is a child.”という言い回しで100件以上出てきます。

むろんこのことばは,「事物はその事物そのものである」という意味,論理学でいう「AはAである」という自同律,同一律を述べているということになるのでしょう。

たとえば,ナチスドイツの時代には,”Jews are Jews.” (ユダヤ人はしょせんユダヤ人だ)という言い方がされましたが,この場合主語のJews と補語の Jews ではコノテーションが異なっています。つまり,「ユダヤ人は××だ。」(××には発話者の偏見が代入される)というのに等しいわけです。

またたとえば,ルネ・マグリットの「これはパイプではない」(”Ceci n’est pas une pipe”)という絵は現実とイメージとことばの間のすきまをこじ開けた作品のように思えます。(フーコーが何か言っていたはずですが忘れちゃった)

スタインの言葉はそれらとはちがって,どの rose という単語も rose そのものでしょう。存在の揺るがし難さ,その驚嘆すべき自明さを語っているようです。

日本語で「桜は桜」というのとはちょっとちがいそうですね。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

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