At fifty, everyone has the face he deserves. (George Orwell)

「50ともなれば誰でも自分にふさわしい顔を持つものだ」(ジョージ・オーウェル)

さらに,

Every man over forty is responsible for his face. (Abraham Lincoln)

「40を越えた男は誰でも自分の顔に責任がある。」(エイブラハム・リンカーン)

 

顔に責任を持てと言われてもねぇ。幾つになっても責任を取るなんてまっぴらごめんだという顔もあれば,生まれたときからすすんで責任を取りたくなる顔もある。私はもちろん前者だし,たいていの人(少なくとも男)はそういうものだ,と期待したい。

だいたい,年を取れば取るほどかつての父親の顔に似てきたような気がする。父親はコンパスで描いたような丸顔だった。どうも丸顔の年寄りは据わりが悪いような気がする。この顔のまま老人になっていくのは気が重い。年を取ってからの方がDNAの呪縛がきつくなるとすれば,責任など取りようがないではないか。

トイレなどで見かける若い人たちは,鏡に向かって延々と髪などをああでもないといじっていて,「自分の顔をよくそんなにしげしげと見つめられるものですね」と声をかけたくなることがあるが,鏡であれ写真であれ,自分の顔というものにどうしようもない異和感を感じている人は多いだろうと思う。嫌悪感というのとはちがう(なくもないが)。自分の外側に自分がつきつけられてしまうと,どうも落ち着かない,いたたまれない。鏡にはできるだけ近づきたくないし,自分の顔が見えたなら一刻も早く逃げ出したくなる。

もちろん,とっくにこの顔を受け入れてはいる。受け入れてはいるが,なじんでいるわけではない。

リンカーン説を採るにせよ,オーウェル説に立つにせよ,40, 50 になって自分の顔と和解できるわけではない。自分の顔にいだく異和感に慣れるだけだ。その慣れを責任とは呼べないかもしれないが,その異和感自体が「自分にふさわしい」ぐらいには感じることができる。

 

でも,この眉毛とたれ目は何とかならないものか。それと頬をもう少しすっきり。それとほうれい線。あと,・・・・

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