ノーベル平和賞の受賞者が決まり,あとは経済学賞を残すのみになった。複数の日本人受賞者が出たために,今年は大騒ぎだ。
文学賞発表の時は,ノーベル財団のオフィシャルサイトである nobelprize.org で,発表のライブ中継を見てしまった。
定刻を1分ぐらい過ぎてから,紙切れを持った紳士が白い扉を開けて会見場へ入ってきて,すぐその場で立ったまま,前置きもなく「今年のノーベル賞文学受賞者は...」と切り出す。発表の瞬間は全世界からのアクセスが殺到したためか,ストリーミングが途切れがちで聞き取りにくく英語ではなくスウェーデン語のようだった。だが聞こえてきた名前は HARUKI MURAKAMI ではなく,Le Clézio であることはすぐにわかった。名前が挙がった瞬間,会見場には8割方の「オー」という失望の声と,その中に少しの歓声が混じる。フランス人らしい女性記者が満面に笑みをたたえて小躍りしていた。村上春樹ファンとしては,そこでストリーミングを切った。
ル・クレジオの名前は特にフランスのメディアでは事前にあがっていた。アメリカのメディアではPhilip Roth, Don DeLillo, Joyce Carol Oates といったところ。各国とも村上の名前も入っている。イギリスの賭け屋の予想ではイタリアの誰とか氏が1位で,村上は6位だったはず。
南部・益川・小林氏の物理学賞は,南部氏の国籍がアメリカ国籍であることがあまり話題にならなかった。新聞では「日本人3人」が見出しに大書されていたが,NY Times や London Times では「アメリカ人1人と日本人2人」(イギリスでは順序が逆だったかも)という見出しだ。読売新聞はNY Times の記事に「アメリカ人1人などという記事さえ出た」と書き,なんかNY Timesの方が間違っているかのようであった。
上記のnobelprize.org には,過去の受賞者一覧に国籍は記されていない。ノーベル賞は国ではなく個人に与えられるものだと考えれば(そのとおりだが)国籍など無意味だが,「日本人3人」を強調すること自体,その考えからははみ出している。フランス国籍の高行健がノーベル文学賞を受賞した時,「中華民族初のノーベル賞受賞者」というニュースが中国では歓びを持って迎えられたと聞いて,わかるような,それでも「ちょっとちがうんじゃないの」というような気持ちがしたのだが,ことは日本でも同じだった。
確かに,ノーベル賞受賞者の数は国の学術的水準について幾許かを語ってはいるだろうから意味がないわけではない。平和賞や経済学賞は批判や議論の余地が多く,また文学賞はそもそも存在意義があるのだろうかとも思うが,わたしが門外漢のせいか,自然科学系についてはノーベル賞の権威はそれほど疑っていない。文科省には××年までに□□人の受賞者を出すことという目標があるらしいが,まあ理解はできる。(でも,ノーベル賞を取らせる教育って,ありうるのか?)だから,国別受賞者数をうんぬんすることもそんなに強く批判する気にはならないが,でもちょっと騒ぎすぎではある。自戒も入っていますがね。経済学賞のMASAHIKO AOKI もいつか取ってほしいし。
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rickie
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締め切りから1週間過ぎているのだが,模試作成2本が残っている。やっと形は見えて来たんだけど,まだあと1週間はかかりそう。
でも,いろんな作成条件ムチャです。
そっちが気がかりで,まともな更新してないなあ。
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rickie
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昨日のつづき。
「グーグル・ブック検索」は,さまざまな大学図書館が提携し,そこから書籍を借りてデジタル入力しているらしい。日本では慶應大学図書館が協力しているとのこと。
「グーグル・ブック検索」ではもちろん日本語の書籍も検索できる。ありがたい。
でもスニペットはいただけない。横書き表示を前提にしているのだ。

ど,どこにみつかったんだ?これでは何の役にも立たないではないか。
まあでも,問題は英語に比べ日本語では検索対象になっている書籍数が少ないということでしょうね。急速に増えてはいるらしいのだが,スニペットを含めプレビュー禁止というものが多いような気がする。スニペッド表示を使えば著作権保護は十分できるのではないか。著作権保護を過剰に意識すれば,文化の基盤が弱体化するわけで,ネットのような技術革新に対応して著作権での縛りをきつくしなくても稼げる手段を企業は開発すべきだろう。
これに限らず,日本は著作権保護を過剰に解釈しすぎる傾向にあるように思える。その対極には一部に見られる著作権無視,それも主義主張があってのことではない無知から来る無視の傾向もある。両極端に流れやすいのは日本の負の伝統ではあるが,といって「中を取って」とすればいいわけでもあるまい。折衷とバランスとは同義ではない。
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rickie
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昨日の話のつづき。
「グーグル・ブック検索」は,通常のGoogle の検索(ウェブ検索)の結果の中にも表示されることがあるし,Google のページの上のメニューにある more > 書籍 をたどっていけば「グーグル・ブック検索」専用ページに入ることもできる。
「グーグル・ブック検索」は,本の中身が検索できるしくみで,検索を開始すると,候補となる書籍がズラッと並び,ひとつ選ぶとその本が表示されるというシステムだ。入力をしているのは出版社自体だったり,図書館だったりする。本のスキャン画像入力とテキスト入力の両方をしているようだ。検索すると,そのスキャン画像の中の該当箇所に黄色の蛍光ペンが引かれた状態で現れる。
問題は,どれほど多くの本が検索対象になっているのか,またその1冊の本のうち,どこまでが閲覧できるかということ。地球上のすべての本がネット上にあり,そのすべてが隅々まで閲覧可能ならいうことはないが,もちろんそれだと紙の本を買う意味がかなり薄れてしまう。検索可能な書籍数については,すくなくとも英語の本に関する限り,かなり広くカバーしていて(とはいえ,全体から見ればまだ一部の本だけだが),これからも次第に広がっていくだろう。
当然著作権問題が絡むので,おそらくその許諾に応じて,全部閲覧可能のものもあれば,検索しても該当箇所の前後の行ぐらいしか見せない場合(スニペット表示)もあるし,全く何も表示されないこともある。全部閲覧可能な場合は,ネット上で無料で本が一冊読めてしまうということだ。英語本の場合,これが案外多いので驚く。いいんですか?すみませんねえ。
「スニペット表示」というのは,こんなかんじ。

その本に,その文句が載っているということしかわからないが,検索の際にダブルコーテーションをうまく使って検索すれば,どの本のどの部分からテキストが採録されたのかを知るための出典調査には十分使える。ただし,検索テキストがその本の中で部分引用されているだけの場合もあるので注意。それでも,引用文献が明示されていればそれをたどって原典が見つかるかもしれない。原典自体は「グーグル・ブック検索」の検索対象になっていないかもしれないが。
(つづく)
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rickie
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大学入試の英語長文は,その長文の出典・著者を明示しないことが多い。誰が書いたのか,どういうタイトルの本や記事から採ったのかをはっきりさせていないのだ。
むろんこれには,入試問題という「メディア」の特性もあることはある。タイトルを載せてしまったら,「この文章のタイトルとして適当なものは次のうちどれか」なんて問題は作りにくい。要約問題でもヒントになる,あるいはミスリーディングになる場合がある。テキストの出自にまつわる情報を消去して,できるだけテキストそのものを宙づりにした状態で生徒に読ませるということに,全く意味がないわけではない(すごく意味があるわけでもないが)。
だが,状況は変わりつつある。東大・京大のように以前として著者・タイトルを載せない,載せたこともない(と思う)の大学も多いが,ここ数年は徐々に記載する大学が増えてきた。それでもまだ記載大学は3割程度らしいが,増加傾向にあるのは確かなようだ。それも別に大学のテキスト観や著作権意識が変化したというよりは,主に現代文で裁判沙汰にもなった著作権問題が,英語にも波及してきた,要は外圧がかかってきたということのようだ。
最近ある事情があって,長文の出典調査をいくらかまとまった量せざるを得ないはめになった。☓☓大学の☆学部のyyyy年度の問題のn番の著者は誰で,タイトル・出版年・出版社などの情報を調べるというかなりめんどくさい仕事だ。
昔だったら,ほとんどカンでやるしかなかった。全体の内容から判断してこんなことを書くのはきっとOOに違いないとか,本文中の片言隻句をとらえて割り出したり...まあ,こんな作業で出典まで突き止められるのはごくごくわずかにすぎない。たまたま見つけると,結構うれしい。さっそく授業でひけらかしたりする。もちろん誰も評価してくれないけど。
しかし今はネットがある。特に「グーグル・ブック検索」である。
ちまたでは,ストリート・ビューが話題である(だった)が,「グーグル・ブック検索」のパワーたるや半端じゃない。「こんなのアリなのか?」と思ってしまう。
(つづく)
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rickie
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締め切りまで間がないんだけど,模試を3本(問題+解説)を作る宿題が残っている。昔から夏休みの宿題は8月31日ではなく,9月に入ってからやる主義だった。お尻に火がついて,さらにその熱さが実感できてからでないと動き出せないのですね,わたしは。
これが大学入試なら,合否だけを決めればいいから話は別なんだけど,予備校の模試というものは生徒各人が自分の弱点を発見しつつ,全体の中での立ち位置を見つけるという役割があって,得点分布を適当に散らばらせるのが至難の業だ。だいいち,現役生の場合ホントの意味で実力が伸びるのは冬休み頃からで,それ以前は一部を除けばほとんどダンゴ状態・どんぐり状態なのだ。その母集団をうまく散らばらせる問題なんて無理な注文だよな。そこにいろいろな営業的は配慮・大人の事情的問題が絡む。
というわけで,泣き言はこれくらいに。
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rickie
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気がついてみたら,というのはウソで,ずっと前からの規定事項でとっくにわかってはいたのだが,いつものグズのせいで気づいていないふりで逃げてきただけなんだけど,このひと月で模試を4本仕上げなければならない。
週に1本ペース。作問だけならやれぬこともないが,解説は面倒だし,長文は自分で全訳を用意しなければならない。やってて楽しい部分もあるが,「またこの説明書くのか」と思うと気の滅入るところもある。神経を使う箇所も多い。9月はちょっときつくなるかな。
1本めの締め切り間近。
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rickie
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「大学は入りやすくなった」と言われます。私もこれは否定しません。以前なら,これではちょっとこの大学は無理だろうな,という実力の生徒でもけっこう「難関校」に受かったりします。
しかし,もちろんこれは統計上の話であって,個々の生徒を見れば成功も失敗もあります。全体的に入りやすくなれば,当然生徒の志望ランクも上がります。志望ランクが上がればやはり失敗例も増えます。第二志望くらいなら入りやすくなったが,第一志望の入りにくさは昔と変わらない,というあたりが実情ではないでしょうか。
塾,予備校,通信講座,そして高校,どこも成功例を声高に喧伝はしますが,失敗例には口をつぐみます。当然のことですけどね。私の感覚にすぎませんが,どこの学校・予備校でも成功例1に対して,失敗例2ならばいい方ではないかと思います。もちろん何を成功と呼び,何を失敗と呼ぶかは,本人の思い(「日東駒専に受かったんだから十分うれしい」とか「早稲田しか受からなくて悔しい」とか)や教師の思惑(「あいつがここに受かったの(ここしか受からなかったの)」)が絡んで,微妙なわけですが。
この時期は毎年,成功例よりも,失敗例の方が身にこたえる季節です。教師の心構えとしては,「受かれば生徒の実力,落ちれば教師の実力のなさ」と銘じるしかありませんが,その失敗が「実は失敗ではなかった」と思える日が来ることを念じてやみません。
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rickie
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たとえば,飲み屋の一画での英語の教師(といってもオヤジ限定ですが)の身内どうしの会話は,はたから聞くとちょっと奇妙に聞こえるかもしれません。やたらに英語が多いのです。別に英語で話すわけではありません。英単語交じりになるだけです。
「このあいだ,××っていう映画観たんだけど,main character の action つーか performance が,うーん何て言うか far-fetched って感じなんだよね。」
まあ知らない人が聞いたら,業界人か何かに見えるかもしれませんが,風貌はかけ離れています。確かに,ことばを探すときに,日本語より先に英語が思い浮かぶなんてことがないわけではありません。
ある同僚のお気に入りのギャグは,You cannot be put in the corner. です。意味は「君も隅に置けないね」。ほとんどルー大柴の「藪から stick 」のレベルですが,ルーと同様しつこく繰り返します。なんとかなりませんかね。
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rickie
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ここ数日頭痛がやまない。ここ数日じゃないか。年がら年中なのだから。
若い頃はまともな病気などしなかった。風邪をひいて熱を出しても,あったかくして一晩汗だくで寝れば,翌朝は病み上がりの爽快さとともに目覚めることができた。遠い昔の話だ。
頭痛持ちになったのは二十代後半からだろうか。原因らしい原因があるわけではない。逆にいえば,原因らしいものはいくらでもある。喫煙,寝不足,歯痛,副鼻腔炎,便秘(?),頭痛薬依存...頭痛は,連日続くこともあれば,二,三週の間をおくこともある。それが年を経るにつれ間隔が狭まってくる。頭痛の発作,といっても私の場合はさほどの激痛ではなく,鈍い痛みがだらだら続くだけなのだが。
頭痛には,外因性のものを除けば偏頭痛と緊張性頭痛があることはよく知られている。ほんとうのメカニズムはよく分かっていないらしいが,この二種類も我々しろうとは取り違えやすいという。テレビの特集や家庭用医学書を見てもよくわからない。たぶん,あくまでたぶんだが,私の場合は偏頭痛ではないようだ。その違いがわかったとて,頭痛薬を飲む以外の対処法があるわけではない。以前何かのついでに医者に尋ねたこともあるが,これといった治療らしきものは受けなかった。「心配ならCTを撮ってもいいけど,大丈夫だと思うよ。」 こうして,今日も頭痛との騙し合いをしながら一日が過ぎていく。
New York Times に,神経科医のOliver Sacks (オリバー・サックス)の記事が出ていた。
Migraine: Patterns By Oliver Sacks
3,4歳の頃の不思議な体験から語り始めている。遊んでいると突然まばゆい光が見え,やがてその光が,周囲がギザギザの巨大な半円形となって空へと伸びる。やがて今度は左側の視界が完全な空白になり,何も見えなくなる。
それが migraine (偏頭痛)であることを教えてくれたのは,医者でもある彼の母親だった。ここから彼の偏頭痛歴が始まるのだが,こうした錯視は偏頭痛持ち( migraineur と言うんですね,初めて知った )には珍しくはないらしい。特に,絨毯の模様 (pattern) のような,小さな似たような形が連なった幾何学的模様が,視野一面に広がることが多く,中には動物だの,顔だの,頭蓋骨(!) の模様が見える場合もある。むろんこの原因が究明されているわけではないが, Sacks は「脳の一次視覚野の微小なしくみを反映していて」「無数の神経細胞の活動が自己組織化を行い,複雑で変転極まりない文様を生み出す」としている。
さらにすすんで,アルハンブラ宮殿のアラベスク模様,中世キリスト教世界の模様,アボリジニーのアート,ネイティヴアメリカンの文様,さらには60年代のサイケデリックアートに見られるパターンはこうした脳の構造を反映した,人類共通の経験なのでは?というところまで突き進んでいる。ちょっとユングめいている。
Whether or not this is the case, there is an increasing feeling among neuroscientists that self-organizing activity in vast populations of visual neurons is a prerequisite of visual perception — that this is how seeing begins. Spontaneous self-organization is not restricted to living systems — one may see it equally in the formation of snow crystals, in the roilings and eddies of turbulent water, in certain oscillating chemical reactions.
かくして,果ては自然界全体に見られるパターンへ話は進む。
私はこんな経験はしたことがないが,していたら確実に何か,「神のお告げ」的神秘体験だと思っちゃうでしょうね。
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rickie
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