ノーベル平和賞の受賞者が決まり,あとは経済学賞を残すのみになった。複数の日本人受賞者が出たために,今年は大騒ぎだ。
文学賞発表の時は,ノーベル財団のオフィシャルサイトである nobelprize.org で,発表のライブ中継を見てしまった。
定刻を1分ぐらい過ぎてから,紙切れを持った紳士が白い扉を開けて会見場へ入ってきて,すぐその場で立ったまま,前置きもなく「今年のノーベル賞文学受賞者は...」と切り出す。発表の瞬間は全世界からのアクセスが殺到したためか,ストリーミングが途切れがちで聞き取りにくく英語ではなくスウェーデン語のようだった。だが聞こえてきた名前は HARUKI MURAKAMI ではなく,Le Clézio であることはすぐにわかった。名前が挙がった瞬間,会見場には8割方の「オー」という失望の声と,その中に少しの歓声が混じる。フランス人らしい女性記者が満面に笑みをたたえて小躍りしていた。村上春樹ファンとしては,そこでストリーミングを切った。
ル・クレジオの名前は特にフランスのメディアでは事前にあがっていた。アメリカのメディアではPhilip Roth, Don DeLillo, Joyce Carol Oates といったところ。各国とも村上の名前も入っている。イギリスの賭け屋の予想ではイタリアの誰とか氏が1位で,村上は6位だったはず。
南部・益川・小林氏の物理学賞は,南部氏の国籍がアメリカ国籍であることがあまり話題にならなかった。新聞では「日本人3人」が見出しに大書されていたが,NY Times や London Times では「アメリカ人1人と日本人2人」(イギリスでは順序が逆だったかも)という見出しだ。読売新聞はNY Times の記事に「アメリカ人1人などという記事さえ出た」と書き,なんかNY Timesの方が間違っているかのようであった。
上記のnobelprize.org には,過去の受賞者一覧に国籍は記されていない。ノーベル賞は国ではなく個人に与えられるものだと考えれば(そのとおりだが)国籍など無意味だが,「日本人3人」を強調すること自体,その考えからははみ出している。フランス国籍の高行健がノーベル文学賞を受賞した時,「中華民族初のノーベル賞受賞者」というニュースが中国では歓びを持って迎えられたと聞いて,わかるような,それでも「ちょっとちがうんじゃないの」というような気持ちがしたのだが,ことは日本でも同じだった。
確かに,ノーベル賞受賞者の数は国の学術的水準について幾許かを語ってはいるだろうから意味がないわけではない。平和賞や経済学賞は批判や議論の余地が多く,また文学賞はそもそも存在意義があるのだろうかとも思うが,わたしが門外漢のせいか,自然科学系についてはノーベル賞の権威はそれほど疑っていない。文科省には××年までに□□人の受賞者を出すことという目標があるらしいが,まあ理解はできる。(でも,ノーベル賞を取らせる教育って,ありうるのか?)だから,国別受賞者数をうんぬんすることもそんなに強く批判する気にはならないが,でもちょっと騒ぎすぎではある。自戒も入っていますがね。経済学賞のMASAHIKO AOKI もいつか取ってほしいし。
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Times (London) に載っている。
→ 10 Books Not To Read Before You Die
10: Ulysses – James Joyce
9: Lord of the Rings – J R R Tolkien
8: For Whom the Bell Tolls – Ernest Hemingway
7: À la Recherche du Temps Perdu – Marcel Proust
6: The Dice Man – Luke Reinhart
5: Fear and Loathing in Las Vegas – Hunter S Thompson
4: The Beauty Myth – Naomi Wolff
3: War and Peace – Leo Tolstoy
2: The Iliad — Homer
1: Pride and Prejudice – Jane Austen
基本的には,長さに比してストーリーに起伏の少ないものが選ばれてるような気がする。5, 6 あたりは日本ではほとんど無名に近い。
今考えたが,起伏/長さ 比 というのは何かの尺度になるかしら。
UD/L ratio ( ups and downs / length ratio )。だめか。
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語彙レベル★☆☆☆|ストーリー★★★☆|知的興奮度★★★★|前提知識☆☆☆☆|対象レベル 英検2級以上|ジャンル 純文学|314p.|英語
ポール・オースター(Paul Auster) を有名にした「New York 3 部作」です。つながっているようで,つながっていない中編小説3本で構成されています。
日本では柴田元幸訳で有名になりました。柴田元幸氏が訳した現代アメリカ小説は,村上春樹が訳したアメリカ小説と並んで,柴田文学とでも言うべき一ジャンルを形成しています。柴田訳で読むのもそれ自体の価値があるでしょうが,ここでは原書を紹介しておきます。
3部作を一冊にまとめた本と,3冊に分冊しているバージョン,それに日本で刊行されているバージョンがあります。日本刊行版は,巻末に語彙がついているのがうれしいかもしれません。
3部作は次の3つで,それぞれの語彙レベルを示しておきます。
- “City of Glass” (邦題:「シティ・オブ・グラス」) ★☆☆☆
- “Ghosts” (邦題:「幽霊たち」) ★★☆☆
- “The Locked Room” (邦題:「鍵のかかった部屋」) ★★☆☆
星を微妙に分けていますが,この中でいちばん語彙レベルを高くした “The Locked Room” でも,ふつうの小説よりはやさしめでしょう。三作のキーワードは,ニューヨーク,小説,探偵。
まず,”City of Glass” は,探偵小説を書く小説家である主人公 Quinn のもとに一本の間違い電話がかかって来ることから始まります。
‘Hello?’ said the voice.
‘Who is this?’ asked Quinn.
‘Hell?” said the voice again.
‘I’m listening,’ said Quinn. ‘Who is this?’
‘Is this Paul Auster?’ asked the voice. ‘I would like to speak to Mr Paul Auster.’
‘There’s no one here by that name.’
‘Paul Auster. Of the Auster Detective Agency.’
‘I’m sorry,’ said Quinn. ‘You must have the wrong number.’
‘This is a matter of utmost urgency,’ said the voice.
‘There’s nothing I can do for you,’ said Quinn. ‘There is no Paul Auster here.’ (”City of Glass”)
ねっ,おもしろそうでしょ。Quinn を Paul Auster と間違えてかけてきているのですが,Paul Auster とはこの小説の筆者自身なわけです。ここからQuinnは,探偵 Paul Auster となって,ある人物の追跡を始める,というストーリーです。こう書くとひところ流行した,小説自体がネタ,作者と読者自体を主題にした<メタ小説>のように見えるかもしれません。事実そういうところもあり,ポストモダンな小説の一つとして扱われることもありますが,あまり理屈っぽくはなく,迷路のようなストーリーを楽しんで読めると思います。ただし,巻末ですべての謎が解決される推理小説のようなものを期待しているとはぐらかされるかも。
二作目の”Ghosts” も探偵の話。ある探偵が謎の人物から依頼を受けて,別の謎の人物の監視を始めます。その監視が何カ月にも及び,次第に監視しているのか監視されているのかわからなくなって...というはなし。
三作目の “The Locked Room” では,そこそこ売れた小説家の主人公が,突然消息を絶った少年時代の友人の原稿をその妻から受け取って出版するのですが,主人公は友人の妻と恋におち,その上原稿が大ヒットした後になって死んだと思っていた友人から連絡がきて...。わたしはこれがいちばん好きかな。全体的に村上春樹を思い出させる展開です。
単語レベルを人工的に押さえて,ノン・ネイティブ向けにリライトされているものや,児童・青少年向け文学をのぞけば,この本(とくに “City of Glass”)はこれ以上やさしく書けないというレベルです。この語彙でこれだけの小説が書けてしまうことに驚きます。
それと,”City of Glass” にはマンガのバージョンがあります。文字を多くしたアメ・コミというかんじで,特におすすめはしませんが。
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「説明できない美は私をいらだたせる」 Seven Types of Ambiguity 『曖昧の七つの型』
直訳すると「説明されない美は私にいらだちをかき立てる」となりますが,要するに,「美は説明できないなんていわれるとムカつく」ってことです。
ウィリアム・エンプソンは(William Empson)は20世紀前半に活躍したイギリスの評論家・詩人。分析的でありながら,ことばに対する官能的なセンスを持ち合わせた人で,その点では後のロラン・バルトに似ていなくもないと言えます。
美は,芸術は説明できるのかと問われれば,最終的には説明できないと答えるしかないでしょうが,「最終的に」説明できないということと,ぜんぜんできないことは違います。「最終的に」できないのだからはじめからやっても無駄だ,とも思いません。語学などその最たるもので,ネイティブ並みの語学力なんか無理に決まっていますが,でも語学に意味がないなどとは言えないでしょう。
わたしはハウ・ツーもの,というか方法論ものが嫌いではありません。「映画の撮り方」(画面をどう構成するか,どう動かすか,コマ割りのしかたなど),「写真の撮り方」(フレーム・フォーカス・露出などなど),「小説の書き方」(人物・文体・視点・葛藤などなどなど)。それも分析的なものほどおもしろいですね。なにごとにつけ,神秘化してしまう言説は好きではありません。「人間が・女が書けていない」とか天からのご託宣のような評論ではなく,「センス」「雰囲気」で片づけてしまう半端な議論でもなく,美が発生するメカニズムを精緻に語ってほしいわけです。もちろん,それは一種の解体作業であって,解剖によってすべてが解き明かされるわけではないでしょう。そんなことは百も承知した上で,解剖に解剖を重ねてそれでも解明できないものを「美」と呼んだ方がいいのではないかと思ったりするのですね。
引用箇所が出てくる文脈は以下のとうりです。訳はいつものように拙訳です。
A first-rate wine-taster may only taste small amounts of wine, for fear of disturbing his palate, and I dare say it would really be unwise for an appreciative critic to use his intelligence too freely ; but there is no reason why these specialised habits should be imposed on the ordinary drinker or reader. Specialists usually have a strong Trades Union sense, and critics have been perhaps too willing to insist that the operation of poetry is something magical, to which only their own method of incantation can be applied, or like the growth of a flower, which it would be folly to allow analysis to destroy by digging the roots up and crushing out the juices into the light of day. Critics, as ‘barking dogs’ on this view, are of two sorts: those who merely relieve themselves against the flower of beauty, and those, less continent, who afterwards scratch it up. I myself, I must confess, aspire to the second of these classes; unexplained beauty arouses an irritation in me, a sense that this would be a good place to scratch;
一流のソムリエは自分の口を鈍らせないようにするために,ワインをほんのちょっとしか味見しないが,鋭い批評家も知性を自由に発揮しすぎるのはまあ賢明ではなかろう。だが,こうした専門家的習性を普通の酒飲みや読者にまで押しつけていい理由はない。専門家というものはたいてい強い組合意識を持っているものであり,評論家も,「詩が及ぼす作用というものは魔法みたいなもので,わたしのやり方の呪文しか使えないのだ」とか「詩は花の成長に似て,分析と称して根を掘り起こしたり,花の蜜を絞りだし白日にさらしたりして台無しにするのはぱかげている」とあまりにも主張しがちである。この見方では,評論家は「吠える犬」と同様,二種類に分かれる。一つは単に美しい花に小便をひっかけるだけの者たちであり,もう一つはその後で花をほじくり出す自制心のない者たちである。私自身は後者でありたいと望んでいることを告白せねばならない。説明できない美は私にいら立ちを,ここはほじくるにはうってつけの場所だという感じをかき立てるのである。
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「バラはバラであって,バラ以外のなにものでもない」
有名な文句です。文法をぶち壊しているのところが,名文句たるゆえんの一つでしょう。
最初の出典は,ガートルード・スタイン(Gertrude Stein)の詩 Sacred Emily の一節ですが,彼女自身もお気に入りの言葉だったらしく何度かこの言葉に触れていて,最初の rose に a がつくバージョンや,rose の数が違っているバージョンもあるようです。スタインはアメリカ生まれで,のちにパリへ移住して長いあいだそこで暮らします。 “America is my country, but Paris is my hometown.” ということばも有名です。20世紀前半の代表的なというか,異色のというか詩人・作家です。第一次大戦から戦間期にかけてのパリは,世界中から芸術家たちの集まった芸術の首都であり,彼女が交流した人もピカソ,マチスらの絵描き,ヘミングウェイ,パウンドらの小説家,詩人など多岐にわたります。ヘミングウェイらを Lost Generation と呼んだのも彼女だとされています。
有名な文句ですから,あちらこちらで引用されたり,改作されたりしています。私がきづいたものでは確か,Chaplin の「殺人狂時代」(だったかな?)の中のセリフとして使われていましたし,イギリスの元首相マーガレット・サッチャーは,”A crime is a crime is a crime.”と言ったそうです。Google で適当に検索してみると,たとえば “A child is a child is a child.”という言い回しで100件以上出てきます。
むろんこのことばは,「事物はその事物そのものである」という意味,論理学でいう「AはAである」という自同律,同一律を述べているということになるのでしょう。
たとえば,ナチスドイツの時代には,”Jews are Jews.” (ユダヤ人はしょせんユダヤ人だ)という言い方がされましたが,この場合主語のJews と補語の Jews ではコノテーションが異なっています。つまり,「ユダヤ人は××だ。」(××には発話者の偏見が代入される)というのに等しいわけです。
またたとえば,ルネ・マグリットの「これはパイプではない」(”Ceci n’est pas une pipe”)という絵は現実とイメージとことばの間のすきまをこじ開けた作品のように思えます。(フーコーが何か言っていたはずですが忘れちゃった)
スタインの言葉はそれらとはちがって,どの rose という単語も rose そのものでしょう。存在の揺るがし難さ,その驚嘆すべき自明さを語っているようです。
日本語で「桜は桜」というのとはちょっとちがいそうですね。
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2, 3年前までは,年末になるとその年に刊行された本についてのおすすめの紹介やら書評を載せた雑誌やムックが出ていたものでした。いろんな作家・評論家・学者たちの寄稿を受けて,なかなか読ませるものが多くて重宝したものです。
ミステリー界には「このミス」があって,こちらは今も健在ですね。これもいろいろ参考にさせてもらってます。ふだんからミステリー系をきっちりフォローしているわけではないので,「このミス」の書評・コメントの中から「読まねば」と思わせてくれるやつ,わたしに合いそうなやつなんかをピックアップして手帳に書き込んでいそいそと書店に出かけたり,アマゾンをのぞいたりするわけです。
「このミス」の同工異曲ものも出ているようですし,SFバージョン,ライトノベルバージョンなんかもあるみたいなのですが,肝心の(というのも変だが)一般書籍(というのも変だが)に関する年末恒例のガイドがここのところ刊行されなくなってしまって,年末の楽しみが一つ減ってしまった気がする。
この種のものでよかったのは,2004年まで(?)出ていた,「ことし読む本 いち押しガイド」という雑誌「リテレール」の別冊でした。寄稿者の顔触れも豪華でしたし,内容も製本も,「編集部,チカラが入ってるなあ」というつくりでしたね。ヤスケン死後,「リテレール」自体が止まってしまい,2005年からは出なくなったのが惜しい。
それを引き継いでわけでもないんだろうけど,「日本一怖い! ブック・オブ・ザ・イヤー」というのが,雑誌「SIGHT」の別冊として出ていました(2005年と2006年?)。こちらはちょっと薄めで,つくりも内容とあまり対応せずちょっと安っぽくて,本屋で見ても最初はこちらの意識をスルーしていました。それでも中身は悪くないし,類書もありませんでしたしね。でも,2007年年末は,結局出ずじまい。やっぱり買う人少ないんですかねえ。エライ先生方の原稿料に対して,ペイしないのかもしれません。これだけ世の中に書評ブログがあふれかえっていれば,需要がないのも当たり前なんでしょうか。
健在なのは,みすず書房で出ている「みすず」の1,2月合併号の「読書アンケート特集」くらいかな。これはこの出版社らしく,寄稿者も学者メインで理系の人も多く,本の選び方も小説は少なく,学術書中心のハイブラウなブックガイドです。「今年読んで興味深かった本」というテーマでのアンケートなので,古い本も入っています。この1,2月合併号が欲しくて,年間購読をした年もあったっけ。今年は買いそこなっていたのだけれど,4月になって横浜有隣堂ルミネ店で「みすず書房フェア」かなんかをやっていて,そこで手に入れました。ずいぶん遅れたけどね。
まだパラパラと見ているだけなのですが(もともと通読しませんが),「そんな本あったんだ」というものもあって楽しいのですね。ざっと見て,二人以上上げているのが目につく本は,
- 田中純 「都市の詩学-場所の記憶と兆候」 これを挙げてる人がいちばん多いかも
- 山本義隆 「16世紀文化革命」 これも多かった
- 今村仁司 「社会性の哲学」 亡くなったからというわけではないでしょう
- 亀山郁夫訳 「カラマーゾフの兄弟」 順当ですね
- 福岡伸一 「生物と無生物のあいだ」 これも順当
- 野矢茂樹 「大森荘蔵-哲学の見本」
- 四方田犬彦 「先生とわたし」 この2冊は東大の神話的教師もの
- ジョルジョ・アガンベン 「例外状態」 アガンベンはこれ以外も
- テッサ・モーリス-スズキ 「北朝鮮へのエクソダス-『帰国事業』の影をたどる」 これは知らなかった
- 蓮實重彦 「『赤』の誘惑-フィクション論序説」
ってなところでしょうか。買ったわりに読んでないのが多くて,わたしのコメントが書けなくて悔しい。
数学者の野崎昭弘さんが「ホームレス中学生」を挙げているのがビックリ。
「悪い方に悪い方にと流れてゆくような世相の中で,久しぶりに気持ちのよい,すばらしい本に出会った,と思いました。」
そうだったのか。
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rickie
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「四月は最も残酷な季節」
T. S. Eliot の超難解な詩(といっても20ページを超える長詩)の第一行目の有名な文句です。あまりに難解なので注釈書もいくつも出ています。聖書,シェイクスピア,ボードレール,ダンテ,オウィディウス,その他サンスクリットにいたるまでのさまざまな引用とイメージのちりばめられた詩です。1948年ノーベル文学賞受賞。
私は大学時代にこの詩を途中まで読んで投げ出した,とばかり思っていましたが,本棚の奥から Eliot の “Collected Poems” を引っ張り出してみると,最後まで書き込みがしてあって,また大修館から出ていた注釈書(福田陸太郎,森山泰夫)にも最後までアンダーラインがしてあります。それなのに投げ出したと思っていたわけですから,結局読むには読みきったが,内容的にはお手上げだったということなのでしょう。
冒頭の部分はこうなっています。
April is the cruellest month, breeding
Lilacs out of the dead land, mixing
Memory and desire, stirring
Dull roots with spring rain.
四月はこの上なく残酷な月,
死の大地からライラックを育て上げ,
追憶と欲望をかき混ぜ,春の雨で
生気のない根を奮い立たせる。
福田陸太郎,森山泰夫訳
福田・森山の注釈書によれば,「万物に生気のよみがえる春の訪れをかえって『残酷』に感ずるというのは,草木(すなわち人間)が生命の旺溢した生活を志すどころか,かえって死も同然な無気力な生活に安住することを欲しているからにほかならない」とあります。タナトスってやつですか。事実この直後は次のようになっています。
Winter kept us warm, covering
Earth in forgetful snow, feeding
A little life with dried tubers.
冬はわれわれを暖かく包み,
忘却の雪で大地を蔽い,乾からびた球根
で小さないのちを養ってくれた。
ひからびた忘却の冬が暖かく,雨で奮い立つ追憶の春は残酷,と意識されていることになります。
あるいは,冬は死ではなく,未生段階,生まれる前なのかもしれません( tuber = little life –> root)(warm, womb)。その場合,残酷さとは,この世に生まれ出でることのの残酷さということになります。
あれっ,歳取ると勝手な解釈をするようになるもんだな。
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「人生は恋愛の敵よ」
江國香織の短編集『号泣する準備はできていた』の中の「熱帯夜」の一節。
「いちどこんなセリフを言ってみてえ」と思いましたね。
大地震をおこして世界中を皆殺しにすることができないのなら,考えても無駄だ。世界の中で,やっていくしかない。
「人生は恋愛の敵よ」
私は,最後にひとことだけ秋美に釘をさす。
「何のことだかわからないでしょうけど」
秋美は笑わなかった。きょとんともしていない。
「わかるわ」
と言って,スツールから降りた。
「じっとしてて」
私のうしろに立ち,背中を抱きしめて肩ごしに頬と頬をつける。
「人生は危険よ。そこには時間が流れてるし,他人がいるもの。男も女も犬も子供も」
おわかりでしょうが,二人はレズビアンカップルです。だからこそこんなセリフが言えるわけです。ほっておけば子供ができて,家庭ができて,生活が始まってしまう男女の仲ではなかなかこうは言えません。でも彼らは恋愛を純粋培養できるのかもしれません。ちょっとあこがれます。
でも,やはり無理でしょうね。彼女たちも無理なことはわかっています。この小説の終わりを読めばふたりの今の決意のようなものが見えます。
「ずーっとこのままならいいのに」
私が言い,
「ずーっとこのままだよ」
と,秋美が言う。そして二人ともいっぺんに噴きだしてしまう。
「そらぞらしい」
だから,冒頭のセリフの注としては,『泳ぐのに,安全でも適切でもありません』の「あとがき」の江國香織自身のことばの方がふさわしいのでしょう。
瞬間の集積が時間であり,時間の集積が人生であるならば,私はやっぱり瞬間を信じたい。
英訳は,意外に悩んで結局ありきたりのものにしました。主語と補語をひっくり返した方が理解しやすいかなとか(やっぱり落ち着きが悪いので却下),an enemy にした方がいいかなとか(他の敵は何なんだみたいな余計なことを考えさせるので却下),love じゃ広すぎるから,romantic love とか passionate love とか passion にしようかな(説明的になってしまうので却下)とか考えたのですが。日本語には「愛」「恋」「恋愛」と微妙にというか,大きく違うことばがあるので難しいところでもあり,おもしろいところでもあります。
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rickie
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語彙レベル★★☆☆|ストーリー★★★☆|知的興奮度★★★☆|前提知識☆☆☆☆|対象レベル 英検2級以上|ジャンル 純文学(恋愛小説)|336p.|英語
たまには古典・名作のたぐいも取り上げようかなというわけで,これまた大昔に読んだものを引っ張り出してきました。 ヘミングウェイ,「武器よさらば」。ノーベル賞受賞作家の代表作。学校では「老人と海」がよく取り上げられますが,短いからでしょうね。こちらは長編小説です。
発表は1929年。でも少しも古さを感じさせない英語です。
場面は第一次大戦中のイタリア。イタリア軍に従軍して運転手をしているアメリカ人 Henry が主人公。従軍看護婦のイギリス人女性 Catherine と出会って恋に落ちるというストーリーです。
冒頭の1パラグラフを丸ごと引用してみます。情景描写から始まります。
In the late summer of that year we lived in a house in a village that looked across the river and the plain to the mountains. In the bed of the river there were pebbles and boulders, dry and white in the sun, and the water was clear and swiftly moving and blue in the channels. Troops went by the house and down the road and the dust they raised powdered the leaves of the trees. The trunks of the trees too were dusty and the leaves fell early that year and we saw the troops marching along the road and the dust rising and leaves, stirred by the breeze, falling and the soldiers marching and afterward the road bare and white except for the leaves.
その年の夏の終わりごろ,川とそれに山地へと連なる平野を見渡せるとある村の一軒の家で私たちは暮らしていた。川底には小石が,それに日にあたって白く乾燥した大きな岩々が突き出ていた。水は澄んですばやく流れ,深いところでは青々としていた。軍隊が家の前を通って幹線道路を進み,連中が巻き上げる埃のせいで,木の葉は粉を吹いていた。木の幹も埃まみれで,その年の落葉は早く,そして私たちの目にしたのは,軍隊が道路を行進し,埃が舞い上がり,葉が風に揺られて落ちていき,兵士が行進し,その後に道が落ち葉以外白くむき出しになっている姿であった。
難しい単語はあまりなくても,読みにくいと感じるかもしれませんが,それはこの文章がある意味では「詩的」だからでしょう。and を連発していることからもわかるように,伝統的な意味での名文ではないのですが,簡潔でかつ詩のように反復が多く,視覚的イメージを連ねてリズム感を形作っています。ある意味では現代にまでつながるアメリカ文学の文体の流れの一つを作りだしたと言ってもいいと思います。
Hemingway は短編の評価が高く,”The Killers” のようにほとんど会話だけで,ストーリーが垣間見える(逆にいえばストーリーを語らない)ような作品がみごとなのですが,”A Farewell to Arms” はかなり語ってくれていて,その分わかりやすいでしょう。戦争という状況の中で,二人の異国人が恋におち,そして女性は妊娠し,さらに...という流れは現代の私たちから見れば別に珍しくもないのですが,1929年の時代状況の中ではインパクトはあったでしょう。今でも十分読むに堪える作品です。
次のはほとんど最後に近い場面です。語り手の頭の中のセリフ,いわゆる描出話法です。
Poor, poor dear Cat(=Catherine). And this was the price you paid for sleeping together. This was the end of the trap. This was what people got for loving each other.
かわいそうなキャサリン。一緒に寝たことの代償がこれなんだ。これがワナの行き止まりなんだ。愛し合うとこういうことになってしまうんだ。
そしてこう続きます。ネタバレでもありますので,あえて訳しません。
And what if she should die? She won’t die. People don’t die in childbirth nowadays. That was what all husbands thought. Yes, but what if she should die? She won’t die. She’s just having a bad time. The initial labor is usually protracted. She’s only having a bad time. Afterward we’d say what a bad time and Catherine would say it wasn’t really so bad. But what if she should die? She can’t die. Yes, but what if she should die? She can’t, I tell you. Don’t be a fool. It’s a bad time. It’s just nature giving her hell. It’s only the first labor, which is almost always protracted. Yes, but what if she should die? She can’t die. Why would she die? What reason is there for her to die? There’s just a child that has to be born, the by-product of good nights in Milan. It makes trouble and is born and then you look after it and get fond of it maybe. But what if she should die? She won’t die. But what if she should die? She won’t. She’s all right. But what if she should die? She can’t die. But what if she should die? Hey, what about that? What if she should die?
哀切,痛惨,悲傷のリフレイン。
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「文學界」最新号が『十一人大座談会 ニッポンの小説はどこへ行くのか』という特集を組んでいる。50年前の昭和32年,同誌が掲載した「日本の小説はどう変わるか」という座談会を踏まえた,いわば小説は50年でどう変わったのかという問題設定で行われている会のようだ。
当時の出席者は,
堀田善衛,大岡昇平,伊藤整,遠藤周作,高見順,中村光夫,石川達三,山本健吉,福田恆存,石原慎太郎,野間宏,江藤淳,荒正人(司会)
である。全員がビッグ・ネームで,今回の座談会で古井が言っているように,このメンバーに三島由紀夫,開高健,大江健三郎が加われば,当時の文壇の中心メンバーが終結したことになるほどのまばゆいメンツである。
今回の出席者は,
岡田利規,川上未映子,車谷長吉,島田雅彦,諏訪哲史,田中弥生,筒井康隆,中原昌也,古井由吉,山崎ナオコーラ,高橋源一郎(司会)
である。メンツが軽すぎないか,と言いたいわけではない(言ってもいいが)。軽く見えてしまうのは,かつて小説界を束ねていた(牛耳っていた)文壇というものがもはや存在せず,孤立した小説家群のみが存在するということが理由の一つではあるだろう。このテーマならこの小説家を入れればいいのに,と思う候補はいくらでもいるが,50人の座談会を催したとしても50年前の座談会ほどの重みは期待できない。島田や古井が言うように,かつてあった小説家たちが暗黙に共有していた何かを既に失っているからだ。80年代の頃までは,私は古井由吉と中上健次と村上春樹で現代日本の小説のすべてが語れると思っていたが,中上はすでに亡く,大病以降の古井と「ダンス・ダンス・ダンス」以降の村上はどこかへと後退を余儀なくされながら孤独な苦闘を続けているという印象がある。
小説は死んだか,という語りつくされた感のある問いがここでも反芻される。
- 車谷 「今の時代の流れる速さで行くと,五十年くらい経ったら文学そのものは残っていくだろうけど,小説は書くことがなくなっているだろうというのが私の考えですね。」
- 島田 「車谷さんが,小説に書くものがなくなったとおっしゃったけど,私は割とポジティブなんです。」「二十世紀文学のそれなりの蓄積はあったわけで,その中には二十一世紀の今日,リサイクルできるものはたくさんあると思います。しかし純粋に書籍の形態で文学作品を書いて,それを流通させるという昔ながらのやり方はもうすでに安泰ではないと思っています(…)」
- 田中 「主流となっている言葉に違和感を覚えた時に,昔の本を通してしかそれを確認できないのは,いびつだと思いますし,それを現在形で考える場として,文芸誌的なものがあるんじゃないかと思うんです。たとえば自動車市場の中に,公道でのマナーに一見反する,F1があるように。」
- 筒井 「つまり,文学はもうお終いなんじゃなくて,これからしなきゃいけないことがたくさんあると僕は思うんです。僕にはもうできないけれどね。文学がもし本当になくなるとか滅亡するとかいうのであれば,それより先に人類が滅亡すると僕は思うね。」
- 山崎 「私としては,小説を書くことで言語芸術を作りたいと思っているので,純文学という概念はこれからも打ち出していきたい。自分がこれから時代を作っていきたいと思っています。」
- 諏訪 「2008年現在,ちょっと暴論かもしれませんが,『読者』が死んでしまったんじゃないかという気持ちが僕にはあります。」「この先,自分だけが読みたい小説を万人が自分自身の手で書いていくという時代...『国民総オナニズム時代』が来るかもしれない,ということです。」
- 古井 「(小説の)解体とか崩壊というと,どうかすると投げやりな感じを伴うんだけど,しかし,解体させることによって本質に迫るということはあるわけですよね。私の場合を言いますと,私の気質からしても,歳からしても元気な解体はできない(笑)。ぶっ壊しはできない。けれど,束ね束ね,守りながらほぐしていくことはできるんじゃないかと。そのときどういうことになるかというと,小説から文学へ退くんです。あるいは,文学から言葉まで退いてしまうんじゃないかと思うんです。小説の意味とか世界に対する働きということでも,ひょうとして世間一般の読む,書く,話す,の基本的現実まで考え直さなきゃならないとこに来ているんではないか。」
- 川上 「ここから見ればすべてが見えるという絶対定まっている点がない以上,『いま』しかないという感覚はすごくあります。」「私は自分の小説で,切実に摑んでみたい,闘ってみたいというものしか扱うことができないと思っています。」
- 中原 「一つ言えるのは,日本の文学が終わる前に,世界が終る前に自分が破綻するだろうということです。その前に転職をしなければいけないというのが,自分が今考えていることですね。」
小説の悲観的現状は共有しているようだが,若い女性の書き手(山崎,川上)からは,古風なまでの必死さ(芸術!)が伝わってくるし(新人だから?),年長の古井,車谷,筒井はかえって元気で自信に満ちているように見える。
また,切り口を変えると,分析的な諏訪,筒井,古井に対し,「最後の私小説家」たる車谷は(中原も)ぶつけられる問いを常に意図的にはぐらかし続ける。それゆえに車谷は本人も意図せぬうちに,この座談会の見えない中心としての位置を確保してしまった。
50年前の座談会では,私小説批判の大合唱に対して高見順が激昂する一幕があったらしいが,今回,編集部によって仕組まれた爆弾は車谷と中原であったのだろう。車谷はその意図を見事にかわして若手の敬意を集め,中原はねずみ花火程度だが掻きまわしてくれた。座談会出席者全員を写した写真の中の中原のふてくされぶりは,愛すべき稚気を感じさせて,むしろほほえましい。
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by
rickie
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