The Remains of the Day (Kazuo Ishiguro) — paperback review

邦題 『日の名残り』|語彙レベル★★★☆|ストーリー★★★☆|知的興奮度★★★☆|前提知識★☆☆☆|対象レベル 英検準1級以上|ジャンル 純文学|258p.|英語

カズオ・イシグロはご存知だとは思いますが,現役のイギリス人作家です。生まれは日本ですが幼い頃からイギリス暮らしで,イギリス国籍を取得し,おそらく日本語もできません。ストーリーも文章も,「日本」を感じさせるものは何もないと言っていいでしょう。『日の名残り』は彼の代表作とされる小説で,アンソニー・ホプキンス主演で映画化されています。

まあ,あんまり劇的結末やらオチやらがある小説ではありませんので,ネタバレになるかどうかは気にせず書いています。気になる人はパスしてください。

 

舞台は1950年代イギリスの貴族の屋敷( Darlington Hall と呼ばれている。ただし,現在は Darlington 卿からアメリカ人の手に移っている) で,主人公 スティーブンス(Stevens)はそこに数十年勤める執事である。物語は,彼が休暇を取って,屋敷の所在地である Oxford からイギリスの最東端にある Cornwall に,かつて同じ屋敷で働き,今は結婚している Miss Kenton (旧姓)に会いに行く6日間の車での旅の中で進んでいくのだか,しかしほんとうの旅はむしろ彼の回想の中で進む。Darlington卿が健在で,StevensやMiss Kentonが忙しく働いていた戦間期のイギリスである。それは大英帝国の貴族的精神が最後の輝きをはなっていた時代でもある。小説は,その時代についてのStevensの視点からの回想を中心に展開する。

主人公Stevensは,執事という職にすべてを捧げている男で,一切の感情を表に出さないし,表に出さないことに誇りを持。雇い主であるDarlington卿は,第一次大戦の敗戦国たるドイツが,戦後賠償の支払いや経済破綻で苦しむのを見て,英米仏などの要人を屋敷に集めて調停をはかったりする。Stevensは,主人のこうした努力を支え,自らも大義と歴史に参画できることに無情の歓びを感じる。同じく執事を務めていた父親の死にまつわる動揺や,自分の Miss Kenton への想いを押し殺しながら,「執事」を務めあげる。

たとえば1923年のある日。この日は,屋敷内にヨーロッパ各国とアメリカの要人を集めてドイツ救済に関する重要な会議がDarlington卿によって主催される。階上の一室では,Stevensの父親の容態が悪化する。Miss KentonとStevensは,いつもながら感情的に行き違ったままである。会議では説得のむずかしそうに思えたフランス代表がおしだまったまま,平穏に終わりそうになる。しかし,最後にフランス代表はドイツ救済に異を唱えるのではなく,裏で会議の進展を妨害しようとしていたアメリカ人に非難を浴びせ,さながら古き良きヨーロッパによる新興アメリカの糾弾のセレモニーの様相を呈する(歴史の後知恵では,このリアリスティックなアメリカ人が正しいのだが)。その混乱のなかで,Stevensにはさらに,Darlingtonの友人の息子(結婚を控えた)に,「こどもはどうして生まれるのか」(?)という知識(the facts of life)を教える任務が課されるというコミカルなシーンがはさまる。そして,会議のさなかにStevensの父は死ぬが,息子は会議の世話の責任を最後まで果たす。彼はそれを「勝利」と呼ぶ。

Let me make clear that when I say the conference of 1923, and that night in particular, constituted a turning point in my professional development, I am speaking very much in terms of my own more humble standard. Even so, if you consider the pressures contingent on me that night, you may not think I delude myself unduly if I go so far as to suggest that I did perhaps display, in the face of everything, at least in some modest degree a ‘dignity’ worthy of someone like Mr Marshall — or come to that, my father. Indeed, why should I deny it? For all its sad associations, whenever I recall that evening today, I find I do so with a large sense of triumph.

「ただこれだけははっきりさせておこう。1923年の会議,特にあの夜は,わたしのプロとしての成長において転換点をなしている,とわたしが言う時,わたしなりのつつましい基準で述べているにすぎないのだ。とは言っても,あの夜,わたしに降りかかった重圧を考えれば,諸事に直面しても,わたしがマーシャル氏(名執事と呼ばれている人)や,さらにはわたしの父のような人こそふさわしい『威厳』という資質をわたしもまた少なくとも控えめな程度には示すことができたのだとまで言ったとしても,過度な思い込みだとは思われないだろう。いや,どうしてそれを否定できようか。あの晩のことを今日思い出すと,悲しい連想の数々にもかかわらず,勝利したのだという気分がいっしょにあふれかえってくるのだ。」

 

この小説は全編がStevensという視点から語られているのだが,この語り手は,「信頼できない語り手」という手法に属する。この小説の場合,語り手は事実を偽っているわけではない。ただ,事実の解釈が根本的にまちがっているのだ。彼の Miss Kenton への想いは紛れもなく恋愛感情なのだが,彼はそれを自らに対して許すことも認めることもしない。Darlington卿の行動は親ナチス・反ユダヤ的になっていき,彼はその間違いにうすらうすら気づいているのに「執事」としての立場に隠れるだけでなく,気づいていることにも気づいていない姿勢をとる。読み手は語り手に対して,そういう態度,そういうことば,そういう解釈はないだろう,イライラしてくるのだが,そのイライラこそが作者の意図したことであろう。

Miss Kentonは,結婚して屋敷を去り,30年の月日が経過した後,つまりこの物語が語られている時点に再会するが,そこでもStevensは踏み出すことを自らに禁じたまま,最後の別離となる。

At first, my mood was — I do not mind admitting it — somewhat downcast. But then as I continued to stand there< a curious thing began to take place; that is to say, a deep feeling of triumph started to well up within me.

「はじめわたしの気分は,いくぶんの落胆であったし,それを認めるのにやぶさかではない。しかしそれから,そのままそこに立っていると,ある奇妙なものが生じ始めた。つまり,深いところから勝利の感情がわたしの中に湧き上がってきたのだ。」

 

英語の読みやすさという点でこの本を評価するのは,なかなかむずかしいような気がする。語り手は,もったいぶった,こっけいなほど凝った言い回しを駆使する。それは一昔もふた昔も前の大学入試のイギリス英語( Russell とかMaughamとか Lynd とか)やこみ入った構文に慣れ親しんだ記憶のある人には,むしろ懐かしく楽しめるかもしれない。逆に,現代の口語的アメリカ英語しか英語だと思っていない向きには,むずかしく見えるかもしれない。たしか斎藤兆史氏は,この小説を現代の名文に挙げていたが,名文かどうかはともかく名人芸の英文ではあると思う。

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