When I looked at those photographs, something broke. Some limit had been reached, and not only that of horror; I felt irrevocably grieved, wounded, but a part of my feelings started to tighten; something went dead; something is still crying. (Susan Sontag)

「それらの写真を見たとき,わたしの中の何かが壊れてしまった。何かの限界にまでつきあたったのだが,恐怖の限界というだけではなかった。取り返しのつかない悲しみと傷を受け,しかし逆に私の感情の一部はこわばり始めた。何かが死んでしまった。そして何かが今でも泣いている。」(スーザン・ソンタグ)

スーザン・ソンタグ「写真論」(On photography)の一節。

ソンタグは名前から察せられるように,ユダヤ系アメリカ人で,評論家・小説家。ベトナム戦争に反対してハノイにも行ったが,Jane Fonda のように舞い上がっていたわけではなく,9.11に際してはその発言で,多分にヒステリックになっていた世論から叩かれたが,終始冷静さを保ち,2004年,静かに亡くなりました。わたしたちの世代の人間には忘れることのできないひとりです。

引用は,彼女が12歳の時に本屋で見かけたベルゲン・ベルゼンとダッハウ(ユダヤ人虐殺のための強制収容所)の写真についてのことばです。

One’s first encounter with the photographic inventory of ultimate horror is a kind of revelation, the prototypically modern revelation; a negative epiphany.

「一連の究極の恐怖の写真との最初の出会いは一種の啓示,現代における啓示の原型をなすものであり,逆の意味でのエピファニーである」

Nothing I have seen — in photographs or in real life — ever cut me as sharply, deeply, instantaneously. Indeed, it seems plausible to me to divide my life into two parts, before I saw those photographs (I was twelve) and after, though it was several years before I understood fully what they were about.

「写真の中であれ,実生活においてであれ,私がこれまで見たもののうちで,これほどまでに鋭く,深く,瞬間的にわたしを切り裂いたものは何もない。わたしの人生は,その写真を見る前(当時12歳だった)と見た後の2つに分けられるといっても間違いだとは思えない。その写真が何のことなのか本当にわかったのは数年してからであったが。」

偶然ですが,わたしの同様の経験もちょうど12歳の時ではなかったかと思います。中学受験のための塾が日曜ごとに大学の教室を借りて開かれていて,その教室の壁に張り出されていた小さな写真です。写真には,地面に横たわるベトナム人の女性の裸の胸にナイフを突き立てているアメリカ兵の姿が撮られていました。写真のわきには,「アメリカはやがてベトコンになる子どもを育てさせないために」残虐行為を行っているのだという告発文がつけられていました。その大学の共産党系自治会が貼り出した写真のようでした。

今から考えれば,かなり不自然な写真です。写真は米兵の背後の肩口から撮られていましたが,そのような写真が存在すること自体,ちょっとありえないのではないかと思います。

しかし,たとえそれが北ベトナム側が宣伝用に自作自演したデマ写真であったとしても,その時受けた傷は取り返しのつかない(irrevocable)ものでした。偽りであるかどうか,事実そういう出来事があったのかどうかは,もはや問題ではありません。ただ,形のない恐怖のようなものに襲われ,たじろぎおびえていた,その事実の方がわたしにとっては決定的でした。その時わたしが知ったのは,この世には何かわけのわからない悪意のようなものが存在しているということなのではないかと,今は思います。その悪意に対する怯えは,今でも消えることがありません。

おそらく,いまでも子どもたちはどこかで,人知れずこのような恐怖と出会っているのでしょう。おとなたちはそれに気づくはずもありません。この傷は大人になるために誰でもいつかは受けなければならない傷なのでしょうか。その出会いが,偽りの映像やゲームやネットでの出会いになるとしたら,それはそれで「現代における啓示の原型」なのかもしれませんが。

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