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culture と civilization (その2)

7月
2009
5
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前回は,日本語には

文化 = 「精神的」, 文明 = 「物質的」

という図式が成り立ちうるが,英語では

culture = 「精神的」 は言えても,civilization = 「物質的」 は成り立たない,

ということを述べた。culture と civilization は,「意味論的に相補的ペアをなす一対の語」ではない。

 

わたしが,civilization = 「物質文明」 という図式を疑うようになったのは,大学時代にフランス語に触れたことがきっかけだった。

当時よく使われていた「モージェ」という愛称の教科書があって,これはモージェという人の作ったテキストなのだが,正式な名前は "Langue et Civilisation Françaises" という。「フランス語とフランス文明」。こういう時は「フランス語とフランス文化」といいそうなところに「文明」が使われている。じじつ第4巻などはほとんど文学だ。英語のcivilization も「物質文明」だけを意味するわけではないことは見たとおりだが,フランス語では英語よりも,「文明」という語のカバーする範囲が少しだけ広いようで,日本語とはさらに違いが大きくなっている。

 

しかし,civilization は「物質文明」を表すと言ってきたのは,あの教師だけではない。多くの教師たちが口にしてきた説明である[1] 。 それは単に日本語の「文化」と「文明」が持つニュアンスを culture と civilization に投射したということにすぎないのだろうか?

「文化」「文明」という日本語は漢語・漢文からとられた語ではあるが,現在の意味で使われるようになったのは明治以降のことで,つまり culture, civilization の日本語訳・翻訳語として使われる過程で現在の意味が付与されたことになる。だとすると,civilization = 「物質的」という原義にないニュアンスはどこから来たのか?

日本最大の国語事典「日本国語大辞典」はそのへんの消息を伝えてくれる。

文化

[語誌] (1) 漢籍に見られる語であるが,明治時代に「文明」とともに civilization の訳語として使用され,当初は「文明」とほぼ同じ意味であった。「文明」が「文明開化」という成語の流行によって明治時代初期から一般的に使用されていたのに対して,「文化」が定着したのは遅れて明治20年前後である。 (2) 明治30年代後半になると,ドイツ哲学が日本社会に浸透し始め,それに伴い「文化」はドイツ語の Kultur (英語の culture)の訳語へと転じた。そのことによって,次第に「文化」と「文明」の違いが強調されるようになった。大正時代になる[2] と,「文化」が多用されるようになり,「文明」の意味をも包括するようになってきた。

(小学館「日本国語大辞典」第2版)

つまり当初,文明 = 文化(「文明」優勢) だったのが分化して,文明<->文化 という対立図式ができ,しだいに「文化」優勢へと変わっていったことになる[3]

ドイツ語の辞書の「文明」(Zivilisation:ツィヴィリザツィオーン)の定義は,次のようなものだ。[4]

Zivilisation

Gesamtheit der durch den technischen u. wissenschaftlichen Fortschritt geschaffenen u. verbesserten sozialen u. materiellen Lebensbedingungen

文明 : 科学技術の進歩により創造・改良された社会的・物質的生活条件の総体

これは「広辞苑」の「文明」の項と大差ない。

 

「文明」の意味にはフランスの影響が,「文化」の意味にはドイツの影響がにじんでいる。

「文明」はフランス啓蒙主義とフランス革命の理念がその理念的支柱とした語であり,理性・啓蒙・進歩・普遍・都市・近代という概念と親和的であるが,「文化」の方は19世紀以降のドイツ思想やドイツ・ナショナリズムを背景に,超越的な精神性や民族の固有性と結びつく。

やがてこの2つは緊張関係を迎え[5] ,第1次世界大戦,戦間期,第2次世界大戦をとおして「文明」対「文化」の闘いがつづく。ナチスドイツはこの闘争の土壌の中から生まれているし,またそれを利用して国民動員態勢を作り上げた。[6] ドイツ人作家トーマス・マンは,ナチスを生んだ文化土壌を「ドイツ文化のデモーニッシュな面」として批判した。フランスのレジスタンス作家ヴェルコールの小説「海の沈黙」では,ドイツ人将校が戦争目的を「フランス文明とドイツ文化を結婚させる」ことと合理化している。仏独の対立は「文明」対「文化」の戦争というイデオロギーで飾られたのである。

 

明治後期から昭和初期にかけての日本語の「文化」という語の興隆が,こうした時代背景を背負っていることは疑えないだろうと思う。日本は日英同盟から日独伊三国同盟へと外交基軸が変遷していくが,それと相即的にドイツ的「文化」概念を輸入し,その概念を「文明」概念に逆照射して,精神文化<->物質文明 という図式を受け入れたということになる。同時期に輸入されたマルクス主義も,反資本主義というイデオロギーがむしろ反(物質)文明という理念と背馳することなくそれに溶け込んでいった。[7]

 

戦後,こうした「文化」概念は脱色されたはずなのだが,「文化は精神的,文明は物質的」というニュアンスはいまだかすかに命脈を保っているように思える。おそらく,文化と文明を対立させて考える思考法が,歴史上の一時期,地理的な一地方の問題には限られないからであろう。グローバル文明 対 ナショナル・リージョナルな文化 という形でふたたび現れているのかもしれないが,単純な歴史の反復にはならないだろう。

 


  1. 日本に限らず,また英語に限らず,教育はこうした誤解を常に再生産している。時を経るにつれある誤解は修正され,しかし新たな誤解が生み出される。 [▲ 戻る]
  2. 明治書院「現代に生きる幕末・明治初期漢語辞典」(佐藤亨 著)によれば明治43年ごろ [▲ 戻る]
  3. 「文化住宅」「文化包丁」というのは,文化的というより文明的(今風に言えば「インテリジェントな」ということだろう。文化が文明の意味の一部を請け負っている。) [▲ 戻る]
  4. わたしのドイツ語はあてにならないのだが。でも英語もそうか。 [▲ 戻る]
  5. というより,「文明」概念に対する対抗思想として「文化」概念が生じたのであろう。ナポレオンの侵略に対して,フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」を発したことが想起できる。 [▲ 戻る]
  6. このあたりの記述は,岩波「哲学・思想事典」の「文化」「文明」の項を参考にした。執筆者はいずれも,中田光雄。 [▲ 戻る]
  7. マルクス主義は普遍性を志向するイデオロギーでありながらも,エンゲルスはその源泉として「イギリス経済学」「フランス政治」「ドイツ哲学」をあげ,精神性をドイツに負わせているのがおもしろい。 [▲ 戻る]

 

 

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by rickie | Posted in ことばをめぐる散歩 | No Comments »

culture と civilization (その1)

7月
2009
3
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「文化」と「文明」。

いつどこでのことかは覚えてはいないのだが,はるか昔の授業でのこと。ある英語の教師が何かのついでに「culture は「精神的な文化」のこと,civilization は「物質的な文明」のことですね。」と説明した。culture と civilization の違いについてである。

それ以来この説明は何度も耳にしたものだし,わたし自身口走ったこともあるかもしれない。

物質文明 vs 精神文化。実にわかりやすい。わかりやすいが,ほんとだろうか?

 

言葉の意味,特にそれが内包する微妙なニュアンスを考えるには,まずその用法,用例を考えるべきだろう。

「日本文化」はよく使われる。「日本文明」はあまり聞かない。何か縄文時代の日本人が土器を練りながら怪しげな儀式をしている時代みたいだ。

「機械文明」は言えるが,「機械文化」はムリそうだ。やはり「物質的」ということ?でも「中国文明」には儒教や道教だって含まれるのでは?

「文化人」と「文明人」。わたしは文化人ではないが,文明人ではありうる。文化人は少数のエリートしかなれないが,文明人は「文明的」と呼ばれている社会や時代に帰属していればオッケーだ。

反対語を考えるのも意味をつかまえるうまい手段である。

「文明」の反対語は「野蛮」「未開」。「文化」の反対語は何か?

 

代表的な英和辞典と国語事典で,culture <―> civilization ,文化 <―> 文明 を調べてみよう。

culture  文化

culture [名] 1 [U] 文化; 芸術,文化活動((1)特定の時代・国における文化やその文化を共有する集団・社会を指す場合には[C]; その際しばしば修飾語を伴う。 (2) civilizationより精神面に重点をおく言い方) 2 [U] (学問・技能などの)修練;教養; 洗練 3 《医・生物》[U] (細菌などの)培養; [C] 培養菌,培養された細胞 4 [U] 栽培,耕作; 養殖,飼育

(三省堂 「ウィズダム英和辞典」第2版)

青字は筆者。以下同じ。)

文化

(3) (culture)人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ科学・技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、技術的発展のニュアンスが強い文明と区別する

(広辞苑 第6版)

 

civilization 文明

civilization [名] 1 [C][U] 文明 《高度に発達し,固有の文化生活様式を有した状態,また個々のそのような社会 → culture》 2 [U] (集合的に)文明世界,文明諸国(民) 3 [U] 文明化,開花; 教化 4 [U] (技術の進歩によって生み出された)便利なもの,文明の利器; (おどけて)(便利で快適な)文明生活,都会生活

(三省堂 「ウィズダム英和辞典」第2版)

 

文明

(2) (civilization)都市化。
(ア)生産手段の発達によって生活水準が上がり、人権尊重と機会均等などの原則が認められている社会、すなわち近代社会の状態。
(イ)宗教・道徳・学芸などの精神的所産としての狭義の文化に対し、人間の外的活動による技術的・物質的所産。西周、洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論「カノ欧州諸国ト比較スルコトノ多カル中ニ、終ニハ彼ノ ― ヲ羨ミ」→文化(3)

(広辞苑 第6版)

どうも,あの教師の言葉は日本語の「文化」<―> 「文明」 にはあてはまるが,英語の culture <―> civilization とは微妙にずれている。確かに英語の culture にも「精神的」というニュアンスがつきまとっているようなのだが,civilization の方は,「物質的」とは言い切れないものがありそうだ。少なくとも現在の英和では civilization を物資面に限定する記述はない。

今度は英英辞典で引いてみる。最大の英語辞書 OED の出番である。

culture

5. a. absol. The training, development, and refinement of mind, tastes, and manners; the condition of being thus trained and refined; the intellectual side of civilization.

b. (with a and pl.) A particular form or type of intellectual development. Also, the civilization, customs, artistic achievements, etc., of a people, esp. at a certain stage of its development or history. (In many contexts, esp. in Sociology, it is not possible to separate this sense from sense 5a.)

Oxford English Dictionary (2nd edition)

5. a. (絶対語) 精神・嗜好・風俗の教化,発達,洗練; そのように教化・洗練された状態; 文明の知性面

b. (形容詞を伴って,または複数形で) 知的発達の特定の形式・種類。または,一国民,特にその発達や歴史上のある段階にある,文明・習慣・芸術面での業績。(多くの文脈,特に社会学ではこの意味と5aの意味の区別は不可能)

 

civilization

3. (More usually) Civilized condition or state; a developed or advanced state of human society; a particular stage or a particular type of this.

 

civilize

1. To make civil (sense 7); to bring out of a state of barbarism, to instruct in the arts of life, and thus elevate in the scale of humanity; to enlighten, refine, and polish.

Oxford English Dictionary (2nd edition)

「文明」 3. (より一般的用法) 文明化された(civilizedな)状態; 人間社会の発達・進歩した状態; これの特定段階,または特定の種類。

「文明化する」 1. 礼節をわきまえさせること; 野蛮状態から引き出し,生活上の諸芸を教え,もって人間性の高次の段階へと高めること; 啓蒙・洗練し,磨き上げること。

どうもここからすると,culture と civilization が対立的というよりも,culture はcivilization に含まれると考えた方がよさそうな感じである。しかも,civilization には「発達」「進歩」といった,人類が単線的に発展していくという史観が見え隠れしているようだ。「古代文化」と「近代文化」には序列はないが,「古代文明」と「近代文明」には優劣がつけられそうな気がする。やがて発達することが前提の「原始文明」はありえても,「未開文明」はちと苦しいのである。

civilization は civilize から生まれた語だが, ~ize は「~化する」「~にする」という変化を示す動詞なのだから,それもうなずける。「文明」は進歩するが,「文化」は進歩しないのである。

 

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by rickie | Posted in ことばをめぐる散歩 | No Comments »

Unexplained beauty arouses an irritation in me. (William Empson)

5月
2008
13
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「説明できない美は私をいらだたせる」 Seven Types of Ambiguity 『曖昧の七つの型』

直訳すると「説明されない美は私にいらだちをかき立てる」となりますが,要するに,「美は説明できないなんていわれるとムカつく」ってことです。

ウィリアム・エンプソンは(William Empson)は20世紀前半に活躍したイギリスの評論家・詩人。分析的でありながら,ことばに対する官能的なセンスを持ち合わせた人で,その点では後のロラン・バルトに似ていなくもないと言えます。

美は,芸術は説明できるのかと問われれば,最終的には説明できないと答えるしかないでしょうが,「最終的に」説明できないということと,ぜんぜんできないことは違います。「最終的に」できないのだからはじめからやっても無駄だ,とも思いません。語学などその最たるもので,ネイティブ並みの語学力なんか無理に決まっていますが,でも語学に意味がないなどとは言えないでしょう。

わたしはハウ・ツーもの,というか方法論ものが嫌いではありません。「映画の撮り方」(画面をどう構成するか,どう動かすか,コマ割りのしかたなど),「写真の撮り方」(フレーム・フォーカス・露出などなど),「小説の書き方」(人物・文体・視点・葛藤などなどなど)。それも分析的なものほどおもしろいですね。なにごとにつけ,神秘化してしまう言説は好きではありません。「人間が・女が書けていない」とか天からのご託宣のような評論ではなく,「センス」「雰囲気」で片づけてしまう半端な議論でもなく,美が発生するメカニズムを精緻に語ってほしいわけです。もちろん,それは一種の解体作業であって,解剖によってすべてが解き明かされるわけではないでしょう。そんなことは百も承知した上で,解剖に解剖を重ねてそれでも解明できないものを「美」と呼んだ方がいいのではないかと思ったりするのですね。

引用箇所が出てくる文脈は以下のとうりです。訳はいつものように拙訳です。

A first-rate wine-taster may only taste small amounts of wine, for fear of disturbing his palate, and I dare say it would really be unwise for an appreciative critic to use his intelligence too freely ; but there is no reason why these specialised habits should be imposed on the ordinary drinker or reader. Specialists usually have a strong Trades Union sense, and critics have been perhaps too willing to insist that the operation of poetry is something magical, to which only their own method of incantation can be applied, or like the growth of a flower, which it would be folly to allow analysis to destroy by digging the roots up and crushing out the juices into the light of day. Critics, as ‘barking dogs’ on this view, are of two sorts: those who merely relieve themselves against the flower of beauty, and those, less continent, who afterwards scratch it up. I myself, I must confess, aspire to the second of these classes; unexplained beauty arouses an irritation in me, a sense that this would be a good place to scratch;

一流のソムリエは自分の口を鈍らせないようにするために,ワインをほんのちょっとしか味見しないが,鋭い批評家も知性を自由に発揮しすぎるのはまあ賢明ではなかろう。だが,こうした専門家的習性を普通の酒飲みや読者にまで押しつけていい理由はない。専門家というものはたいてい強い組合意識を持っているものであり,評論家も,「詩が及ぼす作用というものは魔法みたいなもので,わたしのやり方の呪文しか使えないのだ」とか「詩は花の成長に似て,分析と称して根を掘り起こしたり,花の蜜を絞りだし白日にさらしたりして台無しにするのはぱかげている」とあまりにも主張しがちである。この見方では,評論家は「吠える犬」と同様,二種類に分かれる。一つは単に美しい花に小便をひっかけるだけの者たちであり,もう一つはその後で花をほじくり出す自制心のない者たちである。私自身は後者でありたいと望んでいることを告白せねばならない。説明できない美は私にいら立ちを,ここはほじくるにはうってつけの場所だという感じをかき立てるのである。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

When I looked at those photographs, something broke. Some limit had been reached, and not only that of horror; I felt irrevocably grieved, wounded, but a part of my feelings started to tighten; something went dead; something is still crying. (Susan Sontag)

4月
2008
29
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「それらの写真を見たとき,わたしの中の何かが壊れてしまった。何かの限界にまでつきあたったのだが,恐怖の限界というだけではなかった。取り返しのつかない悲しみと傷を受け,しかし逆に私の感情の一部はこわばり始めた。何かが死んでしまった。そして何かが今でも泣いている。」(スーザン・ソンタグ)

スーザン・ソンタグ「写真論」(On photography)の一節。

ソンタグは名前から察せられるように,ユダヤ系アメリカ人で,評論家・小説家。ベトナム戦争に反対してハノイにも行ったが,Jane Fonda のように舞い上がっていたわけではなく,9.11に際してはその発言で,多分にヒステリックになっていた世論から叩かれたが,終始冷静さを保ち,2004年,静かに亡くなりました。わたしたちの世代の人間には忘れることのできないひとりです。

引用は,彼女が12歳の時に本屋で見かけたベルゲン・ベルゼンとダッハウ(ユダヤ人虐殺のための強制収容所)の写真についてのことばです。

One’s first encounter with the photographic inventory of ultimate horror is a kind of revelation, the prototypically modern revelation; a negative epiphany.

「一連の究極の恐怖の写真との最初の出会いは一種の啓示,現代における啓示の原型をなすものであり,逆の意味でのエピファニーである」

Nothing I have seen — in photographs or in real life — ever cut me as sharply, deeply, instantaneously. Indeed, it seems plausible to me to divide my life into two parts, before I saw those photographs (I was twelve) and after, though it was several years before I understood fully what they were about.

「写真の中であれ,実生活においてであれ,私がこれまで見たもののうちで,これほどまでに鋭く,深く,瞬間的にわたしを切り裂いたものは何もない。わたしの人生は,その写真を見る前(当時12歳だった)と見た後の2つに分けられるといっても間違いだとは思えない。その写真が何のことなのか本当にわかったのは数年してからであったが。」

偶然ですが,わたしの同様の経験もちょうど12歳の時ではなかったかと思います。中学受験のための塾が日曜ごとに大学の教室を借りて開かれていて,その教室の壁に張り出されていた小さな写真です。写真には,地面に横たわるベトナム人の女性の裸の胸にナイフを突き立てているアメリカ兵の姿が撮られていました。写真のわきには,「アメリカはやがてベトコンになる子どもを育てさせないために」残虐行為を行っているのだという告発文がつけられていました。その大学の共産党系自治会が貼り出した写真のようでした。

今から考えれば,かなり不自然な写真です。写真は米兵の背後の肩口から撮られていましたが,そのような写真が存在すること自体,ちょっとありえないのではないかと思います。

しかし,たとえそれが北ベトナム側が宣伝用に自作自演したデマ写真であったとしても,その時受けた傷は取り返しのつかない(irrevocable)ものでした。偽りであるかどうか,事実そういう出来事があったのかどうかは,もはや問題ではありません。ただ,形のない恐怖のようなものに襲われ,たじろぎおびえていた,その事実の方がわたしにとっては決定的でした。その時わたしが知ったのは,この世には何かわけのわからない悪意のようなものが存在しているということなのではないかと,今は思います。その悪意に対する怯えは,今でも消えることがありません。

おそらく,いまでも子どもたちはどこかで,人知れずこのような恐怖と出会っているのでしょう。おとなたちはそれに気づくはずもありません。この傷は大人になるために誰でもいつかは受けなければならない傷なのでしょうか。その出会いが,偽りの映像やゲームやネットでの出会いになるとしたら,それはそれで「現代における啓示の原型」なのかもしれませんが。

 

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by rickie | Posted in 引用 | No Comments »

『ニッポンの小説はどこへ行くのか』 「文學界」08年4月号

3月
2008
25
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「文學界」最新号が『十一人大座談会 ニッポンの小説はどこへ行くのか』という特集を組んでいる。50年前の昭和32年,同誌が掲載した「日本の小説はどう変わるか」という座談会を踏まえた,いわば小説は50年でどう変わったのかという問題設定で行われている会のようだ。

当時の出席者は,

堀田善衛,大岡昇平,伊藤整,遠藤周作,高見順,中村光夫,石川達三,山本健吉,福田恆存,石原慎太郎,野間宏,江藤淳,荒正人(司会)

である。全員がビッグ・ネームで,今回の座談会で古井が言っているように,このメンバーに三島由紀夫,開高健,大江健三郎が加われば,当時の文壇の中心メンバーが終結したことになるほどのまばゆいメンツである。

今回の出席者は,

岡田利規,川上未映子,車谷長吉,島田雅彦,諏訪哲史,田中弥生,筒井康隆,中原昌也,古井由吉,山崎ナオコーラ,高橋源一郎(司会)

である。メンツが軽すぎないか,と言いたいわけではない(言ってもいいが)。軽く見えてしまうのは,かつて小説界を束ねていた(牛耳っていた)文壇というものがもはや存在せず,孤立した小説家群のみが存在するということが理由の一つではあるだろう。このテーマならこの小説家を入れればいいのに,と思う候補はいくらでもいるが,50人の座談会を催したとしても50年前の座談会ほどの重みは期待できない。島田や古井が言うように,かつてあった小説家たちが暗黙に共有していた何かを既に失っているからだ。80年代の頃までは,私は古井由吉と中上健次と村上春樹で現代日本の小説のすべてが語れると思っていたが,中上はすでに亡く,大病以降の古井と「ダンス・ダンス・ダンス」以降の村上はどこかへと後退を余儀なくされながら孤独な苦闘を続けているという印象がある。

小説は死んだか,という語りつくされた感のある問いがここでも反芻される。

  • 車谷 「今の時代の流れる速さで行くと,五十年くらい経ったら文学そのものは残っていくだろうけど,小説は書くことがなくなっているだろうというのが私の考えですね。」
  • 島田 「車谷さんが,小説に書くものがなくなったとおっしゃったけど,私は割とポジティブなんです。」「二十世紀文学のそれなりの蓄積はあったわけで,その中には二十一世紀の今日,リサイクルできるものはたくさんあると思います。しかし純粋に書籍の形態で文学作品を書いて,それを流通させるという昔ながらのやり方はもうすでに安泰ではないと思っています(…)」
  • 田中 「主流となっている言葉に違和感を覚えた時に,昔の本を通してしかそれを確認できないのは,いびつだと思いますし,それを現在形で考える場として,文芸誌的なものがあるんじゃないかと思うんです。たとえば自動車市場の中に,公道でのマナーに一見反する,F1があるように。」
  • 筒井 「つまり,文学はもうお終いなんじゃなくて,これからしなきゃいけないことがたくさんあると僕は思うんです。僕にはもうできないけれどね。文学がもし本当になくなるとか滅亡するとかいうのであれば,それより先に人類が滅亡すると僕は思うね。」
  • 山崎 「私としては,小説を書くことで言語芸術を作りたいと思っているので,純文学という概念はこれからも打ち出していきたい。自分がこれから時代を作っていきたいと思っています。」
  • 諏訪 「2008年現在,ちょっと暴論かもしれませんが,『読者』が死んでしまったんじゃないかという気持ちが僕にはあります。」「この先,自分だけが読みたい小説を万人が自分自身の手で書いていくという時代...『国民総オナニズム時代』が来るかもしれない,ということです。」
  • 古井 「(小説の)解体とか崩壊というと,どうかすると投げやりな感じを伴うんだけど,しかし,解体させることによって本質に迫るということはあるわけですよね。私の場合を言いますと,私の気質からしても,歳からしても元気な解体はできない(笑)。ぶっ壊しはできない。けれど,束ね束ね,守りながらほぐしていくことはできるんじゃないかと。そのときどういうことになるかというと,小説から文学へ退くんです。あるいは,文学から言葉まで退いてしまうんじゃないかと思うんです。小説の意味とか世界に対する働きということでも,ひょうとして世間一般の読む,書く,話す,の基本的現実まで考え直さなきゃならないとこに来ているんではないか。」
  • 川上 「ここから見ればすべてが見えるという絶対定まっている点がない以上,『いま』しかないという感覚はすごくあります。」「私は自分の小説で,切実に摑んでみたい,闘ってみたいというものしか扱うことができないと思っています。」
  • 中原 「一つ言えるのは,日本の文学が終わる前に,世界が終る前に自分が破綻するだろうということです。その前に転職をしなければいけないというのが,自分が今考えていることですね。」

小説の悲観的現状は共有しているようだが,若い女性の書き手(山崎,川上)からは,古風なまでの必死さ(芸術!)が伝わってくるし(新人だから?),年長の古井,車谷,筒井はかえって元気で自信に満ちているように見える。

また,切り口を変えると,分析的な諏訪,筒井,古井に対し,「最後の私小説家」たる車谷は(中原も)ぶつけられる問いを常に意図的にはぐらかし続ける。それゆえに車谷は本人も意図せぬうちに,この座談会の見えない中心としての位置を確保してしまった。

50年前の座談会では,私小説批判の大合唱に対して高見順が激昂する一幕があったらしいが,今回,編集部によって仕組まれた爆弾は車谷と中原であったのだろう。車谷はその意図を見事にかわして若手の敬意を集め,中原はねずみ花火程度だが掻きまわしてくれた。座談会出席者全員を写した写真の中の中原のふてくされぶりは,愛すべき稚気を感じさせて,むしろほほえましい。

 

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by rickie | Posted in いろんな本 | No Comments »