『ニッポンの小説はどこへ行くのか』 「文學界」08年4月号

「文學界」最新号が『十一人大座談会 ニッポンの小説はどこへ行くのか』という特集を組んでいる。50年前の昭和32年,同誌が掲載した「日本の小説はどう変わるか」という座談会を踏まえた,いわば小説は50年でどう変わったのかという問題設定で行われている会のようだ。

当時の出席者は,

堀田善衛,大岡昇平,伊藤整,遠藤周作,高見順,中村光夫,石川達三,山本健吉,福田恆存,石原慎太郎,野間宏,江藤淳,荒正人(司会)

である。全員がビッグ・ネームで,今回の座談会で古井が言っているように,このメンバーに三島由紀夫,開高健,大江健三郎が加われば,当時の文壇の中心メンバーが終結したことになるほどのまばゆいメンツである。

今回の出席者は,

岡田利規,川上未映子,車谷長吉,島田雅彦,諏訪哲史,田中弥生,筒井康隆,中原昌也,古井由吉,山崎ナオコーラ,高橋源一郎(司会)

である。メンツが軽すぎないか,と言いたいわけではない(言ってもいいが)。軽く見えてしまうのは,かつて小説界を束ねていた(牛耳っていた)文壇というものがもはや存在せず,孤立した小説家群のみが存在するということが理由の一つではあるだろう。このテーマならこの小説家を入れればいいのに,と思う候補はいくらでもいるが,50人の座談会を催したとしても50年前の座談会ほどの重みは期待できない。島田や古井が言うように,かつてあった小説家たちが暗黙に共有していた何かを既に失っているからだ。80年代の頃までは,私は古井由吉と中上健次と村上春樹で現代日本の小説のすべてが語れると思っていたが,中上はすでに亡く,大病以降の古井と「ダンス・ダンス・ダンス」以降の村上はどこかへと後退を余儀なくされながら孤独な苦闘を続けているという印象がある。

小説は死んだか,という語りつくされた感のある問いがここでも反芻される。

  • 車谷 「今の時代の流れる速さで行くと,五十年くらい経ったら文学そのものは残っていくだろうけど,小説は書くことがなくなっているだろうというのが私の考えですね。」
  • 島田 「車谷さんが,小説に書くものがなくなったとおっしゃったけど,私は割とポジティブなんです。」「二十世紀文学のそれなりの蓄積はあったわけで,その中には二十一世紀の今日,リサイクルできるものはたくさんあると思います。しかし純粋に書籍の形態で文学作品を書いて,それを流通させるという昔ながらのやり方はもうすでに安泰ではないと思っています(…)」
  • 田中 「主流となっている言葉に違和感を覚えた時に,昔の本を通してしかそれを確認できないのは,いびつだと思いますし,それを現在形で考える場として,文芸誌的なものがあるんじゃないかと思うんです。たとえば自動車市場の中に,公道でのマナーに一見反する,F1があるように。」
  • 筒井 「つまり,文学はもうお終いなんじゃなくて,これからしなきゃいけないことがたくさんあると僕は思うんです。僕にはもうできないけれどね。文学がもし本当になくなるとか滅亡するとかいうのであれば,それより先に人類が滅亡すると僕は思うね。」
  • 山崎 「私としては,小説を書くことで言語芸術を作りたいと思っているので,純文学という概念はこれからも打ち出していきたい。自分がこれから時代を作っていきたいと思っています。」
  • 諏訪 「2008年現在,ちょっと暴論かもしれませんが,『読者』が死んでしまったんじゃないかという気持ちが僕にはあります。」「この先,自分だけが読みたい小説を万人が自分自身の手で書いていくという時代...『国民総オナニズム時代』が来るかもしれない,ということです。」
  • 古井 「(小説の)解体とか崩壊というと,どうかすると投げやりな感じを伴うんだけど,しかし,解体させることによって本質に迫るということはあるわけですよね。私の場合を言いますと,私の気質からしても,歳からしても元気な解体はできない(笑)。ぶっ壊しはできない。けれど,束ね束ね,守りながらほぐしていくことはできるんじゃないかと。そのときどういうことになるかというと,小説から文学へ退くんです。あるいは,文学から言葉まで退いてしまうんじゃないかと思うんです。小説の意味とか世界に対する働きということでも,ひょうとして世間一般の読む,書く,話す,の基本的現実まで考え直さなきゃならないとこに来ているんではないか。」
  • 川上 「ここから見ればすべてが見えるという絶対定まっている点がない以上,『いま』しかないという感覚はすごくあります。」「私は自分の小説で,切実に摑んでみたい,闘ってみたいというものしか扱うことができないと思っています。」
  • 中原 「一つ言えるのは,日本の文学が終わる前に,世界が終る前に自分が破綻するだろうということです。その前に転職をしなければいけないというのが,自分が今考えていることですね。」

小説の悲観的現状は共有しているようだが,若い女性の書き手(山崎,川上)からは,古風なまでの必死さ(芸術!)が伝わってくるし(新人だから?),年長の古井,車谷,筒井はかえって元気で自信に満ちているように見える。

また,切り口を変えると,分析的な諏訪,筒井,古井に対し,「最後の私小説家」たる車谷は(中原も)ぶつけられる問いを常に意図的にはぐらかし続ける。それゆえに車谷は本人も意図せぬうちに,この座談会の見えない中心としての位置を確保してしまった。

50年前の座談会では,私小説批判の大合唱に対して高見順が激昂する一幕があったらしいが,今回,編集部によって仕組まれた爆弾は車谷と中原であったのだろう。車谷はその意図を見事にかわして若手の敬意を集め,中原はねずみ花火程度だが掻きまわしてくれた。座談会出席者全員を写した写真の中の中原のふてくされぶりは,愛すべき稚気を感じさせて,むしろほほえましい。

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