A Scandal in Bohemia 「ボヘミアの醜聞」 — 1

それでは,第1回め。

タイトルの「ボヘミアの醜聞しゅうぶん」についてまずひとこと。ボヘミアとは,現在のチェコ共和国の西半分の地域の名前です(東半分はモラビア)。これが書かれた1887年にはボヘミア王国が存在し,オーストリア=ハンガリー帝国の一部(この帝国は連邦国家なのでたくさんの国が集まって一つの帝国を作っている)でした。タイトルはそのボヘミアの王様のスキャンダルということですね。

よく世の中に染まらず放浪して暮らす人のことを「ボヘミアン」といいますが,これはもともとは流浪の民ロマ(ジプシー)のことで,たまたまパリにいたロマたちの多くの出身地がボヘミア地方だったことから名付けられたもののようです。

全体は3部構成で,第3部は短く,第1部で背景と事件の概要が語られ,第2部で依頼を実行する,という流れになっています。

 

I.

To Sherlock Holmes she is always the woman. I have seldom heard him mention her under any other name. In his eyes she eclipses and predominates the whole of her sex. It was not that he felt any emotion akin to love for Irene Adler. All emotions, and that one particularly, were abhorrent to his cold, precise but admirably balanced mind. He was, I take it, the most perfect reasoning and observing machine that the world has seen, but as a lover he would have placed himself in a false position. He never spoke of the softer passions, save with a gibe and a sneer. They were admirable things for the observer — excellent for drawing the veil from men’s motives and actions. But for the trained reasoner to admit such intrusions into his own delicate and finely adjusted temperament was to introduce a distracting factor which might throw a doubt upon all his mental results. Grit in a sensitive instrument, or a crack in one of his own high-power lenses, would not be more disturbing than a strong emotion in a nature such as his. And yet there was but one woman to him, and that woman was the late Irene Adler, of dubious and questionable memory.

シャーロック・ホームズにとって,彼女はいつも「あのひと」である。他の呼び名で彼が彼女のことに触れるのを僕はまず聞いたことがない。彼の目から見れば,彼女は女性全体を蔽いかくし,女性全体を圧倒している。といって彼がアイリーン・アドラーに対して愛情に近い感情をいだいていたというわけではない。感情という感情,特にその種の感情は,彼の冷徹緻密ではあるがみごとに均衡を保った精神とは相いれないものであったのだから。僕の考えでは,彼はこれまでこの世で存在したもっとも完璧な推理・観察マシンであったが,恋愛などしようものなら,ひどく場違いなことになったであろう。恋愛という甘い熱情について語る時には,いつもあざけりと冷笑をこめていた。恋愛感情は傍目にはすばらしいもので,つまり人の動機や行為をまざまざと見せつけてくれる。だが,推理力を鍛えたものにとっては,自分の繊細でこまかく調整された心理状態にそういったものが侵入するを許してしまうのは,攪乱要因を持ち込むようなものであり,自分の精神が引き出す結論がみな疑わしいものになってしまうかもしれないのである。高感度の器具に砂粒が入り込んだり,彼の高倍率の拡大鏡にひびが入ったりしたとしても,彼のような性格に紛れ込む強い感情ほどは混乱をもたらすことはないだろう。だが,その彼にとってもたったひとりの女性は存在し,その女性こそ怪しげでいかがわしい名声を持つ,故アイリーン・アドラーであった。

【 解説 】

  • To Sherlock Holmes she is … ― ホームズのシリーズにおいては,語り手は常にワトソン。ここでも,ホームズの女性観がワトソンの口から語り出される。she とはこの2文あとに出てくる Irene Adler のこと。
  • the woman ― 典型を示すthe。ふつう [ðiː]という強音で発音されることが多い。
    (ex.) This is the wine. 「これこそ本物のワインだ。」
  • I have seldom heard him mention ― I がワトソン博士。 hear + O + V(原形) 「OがVするのを聞く」
  • In his eyesin one’s eyes = to one’s eyes 「~の目から見ると,~の観点では」 eye を比喩的な意味で使う時は「視点」「見方」の意味では複数,「監視」「鑑賞力」の意味では単数が多い。 (ex.) have an eye for music 「音楽がわかる」 / keep an eye on ~ 「~から目を離さない」
  • eclipse ― 「~を覆い隠す,~をしのぐ」 名詞の eclipse は「食」。 (ex.) solar eclipse 「日食」, lunar eclipse 「月食」
  • predominate ― 「~よりも優位に立つ,支配する」
  • It was not that …It is not that S+V … (, but that …) 「・・・ということ(だから)ではなく,・・・ということ(だから)だ」  that は名詞節を導く接続詞「・・・ということ」だが,この構文はそれ以外に理由を表すこともある。
  • emotion akin to love ― この akin はemotion にかかる形容詞。 be akin to ~ 「~に似ている」 = be similar to
    (ex.) Pity is akin to love. これを夏目漱石は「可哀想だは惚れたってことよ。」と訳したとか。
  • were abhorrent to … ― be abhorrent to ~ 「~と対立する,~にとっていまわしい」 < abhor 「~を忌み嫌う」
  • cold, precise but … mind ― カンマで切らないこと。 形容詞A, 形容詞B but 形容詞C + 名詞 「Aで,BだがCである名詞」
  • He was, I take it, … ―  I take it は挿入節。 I take it that he was … と同じ。take it that … 「・・・だと思う,推測する」 (= suppose that …, assume that …)
  • the most perfect … machine that the world has seen ― the + 最上級 + 名詞 that + 完了形… 「今まで・・・したうちでいちばん~」
  • as a lover he would have placed himself in a false position ― 直訳すると,「恋をする人としては,彼は自分を間違った場所に置いてしまっただろう」。would have + p.p. は仮定法過去完了形で,ここでは as a lover という句が if 節の代わりをしている。「実際には恋などしなかったが,もし恋をしていたならば,それは彼を場違いな位置に置いたことであろう。」ということ。
  • the softer passions ― the がついているので,「その甘やかな情熱」は上で述べた恋愛を指す。
  • He never spoke of the softer passions, save with a gibe and a sneer. ― gibe 「嘲笑,あざけり」, sneer 「冷笑,軽蔑」 save は前置詞で,except, but と同じく「~を除いて」という意味。この「除いて」型前置詞は,前置詞のクセに(!)名詞・動名詞以外を目的語にできる。不定詞やthat節もOK。ここではwith ~ という前置詞句がついて,「嘲笑や冷笑をもって(語ること)を除くと,いちども語ったことがない」となる。
  • They were admirable ― They が指すのは, the softer passions。
  • drawing the veil ― たとえば, draw the curtain というと「カーテンを引く」だが,これはカーテンを引いて閉める,という場合にも開ける場合にも使えるが,ここはベールなので「覆いを取り除く」こと。
  • finely adjusted temperament ― 「こまかく調整された精神(心理状態)」 fine 「こまかい,精密な」。「ファイン・セラミックス」という場合の「ファイン」。
  • throw a doubt upon ― 「~に疑いを投げかける」
  • grit in a sensitive instrument ― grit 「砂,じゃり」。 sensitive 「(機械などの)感度が高い」
  • a crack in his own high-power lenses ― crack 「ひび」  lens は,シャーロック・ホームズといえば連想される大きな虫メガネのことでしょう。
  • would not be more disturbing than a strong emotion in a nature such as his ― 上の「砂」と「ひび」がこの文の主語。would は仮定法であり,主語に if 節の意味が含まれている。「たとえ砂が入ったり,ひびが入ったりしても,・・・以上にはdisturbingではない。」 nature 「本性,性質,天性」。 his = his nature 。
  • And yet there was but one woman to him ― and yet 「しかも,しかしながら」。 ここの but は副詞でonlyと同じ。 but one woman = only one woman 。
  • the late Irene Adler ― late + 人 は「故~」「今は亡き~」。
  • of dubious and questionable memory. ― memory 「(死後の)名声,評判」。 (ex.) the late queen of blessed memory 「ほまれ高き亡き女王」(ジーニアス大英和)。 dubious 「あやしげな」, questionable 「信用のおけない,いかがわしい」。

 

【 おまけ 】

シャーロック・ホームズにとっての唯一の女性であり,今回の事件のターゲットであるアイリーン・アドラー。ワトソンは恋愛感情ではないと言っていますが,それでもある種の恋愛感情としか呼びようのない感情をホームズいだいていたことは疑いないでしょう。引用箇所の最後で「故」をつけて呼ばれていますが,これはシャーロッキアンたちの中ではちょっとした謎のようです。そのうち触れる予定です。

as a lover he would have placed himself in a false position. という部分の翻訳を比較してみます。

  • 《小池 訳》 恋をする男としては,まるで場違いなことになる。
  • 《阿部 訳》 恋をする男になったとすれば,それはとんでもない場ちがいというところだろう。
  • 《鮎川 訳》 恋人としてはとんだ役割ちがいになる。
  • 《延原 訳》 こと恋愛となると,まるきり手も足も出ない不器用な男だった。
  • 《日暮 訳》 こと恋愛になると,まるで場違いな存在になってしまう。

この中では,延原訳が原文の束縛からいちばん自由に振る舞っているようですが,他の部分でもそれは言えそうです。入試の答案ならば,仮定法をいちばん忠実に日本語にこめている阿部訳が満点ですが,でもこの部分に限れば,それほどこなれた日本語になっている印象は受けません。全員 place という語の意味を訳文に入れていませんが,当然でしょう。 place oneself ~ 「自分を~の位置に置く」は,結果的に見れば「自分は~の立場にいる」ということで,find oneself ~ と似たようなものです。 find oneself もただの be 動詞に近い表現です。(ex.) He found himself lying on the bench. 「(気づいてみると)彼はベンチで寝ていた。」

 

最低2パラグラフやる予定だったのだけれど,1つで終わってしまった。予想以上に時間がかかる!

4 thoughts on “A Scandal in Bohemia 「ボヘミアの醜聞」 — 1”

  1. ぐうたらぅ より:

    はじめまして。シャーロック・ホームズの原文・翻訳・解説をブログで読めるなんてうれしいです。大変だと思いますが楽しみにしていますのでよろしくお願いします♪

    theの発音には、[ðiː]もあるんですね。ザとジしかないと思っていたので「ジ…ウーマン」(タメを入れてると思ってました)の謎が解けました。

    a false positionの意味がいまだによくわかりません。一ホームズファン読者の心情としてはホームズが恋愛下手みたいな翻訳は却下したい(「恋愛相手には向かない」ぐらいにぼかしてくれないかなー?(笑))と思うのですが―。

  2. rickie より:

    コメントありがとうございます。

    theの発音は調べてみると,標準の[ðə][ði]と強音の[ðiː]以外にも[ðʌ]なんてのも載ってます。朗読は[ðiː]が近いですね。
    a false position はいろんな翻訳では「場ちがい」と訳してるものが多いようですね。直訳は「間違った立場・位置」。「誤解を受けるような立場」という訳もありますが,
    そっかー,確かに「恋愛などしようものなら」なんて訳すと,言い過ぎかも。
    ただ,文章全体はワトソンが語っているわけで,いつもホームズにやり込められているワトソンとしては,「でも恋愛に関してはボクの方が経験豊富なのさ」というひそかな思い(コンプレックス?)がつい言葉の端っこに出てしまったと解釈できそうな気もするんですが…

  3. ぐうたらぅ より:

    御返事ありがとうございます。
    たしかにワトソンはそう思っている可能性ありますねー(笑)。

    あ、eyeの複数形と単数形での意味の使い分け、どっちも両目ですることに思えるのに、不思議ですね。

  4. rickie より:

    > eyeの複数形と単数形での意味の使い分け、どっちも両目ですることに思えるのに、不思議ですね。

    ですよねえ。「eye を比喩的な意味で使う時は「視点」「見方」の意味では複数,「監視」「鑑賞力」の意味では単数が多い。」と書いたけど,
    なぜ,と聞かれると答えられません。

    ぐうたらぅさんは,ホームズにかなりお詳しいようですね。またいろいろ教えて下さい。

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