「東大合格生のノートはかならず美しい」(太田あや著 文藝春秋)という本がある。売れに売れている,というはなしだ。近所の本屋ではレジ前に平積みである。
それにしても,なタイトルではある。まあ,タイトルをつけるのは著者ではなく編集者だろうから,そして昨今は(昔から?)タイトルと企画力と営業力で売り上げは決まってしまうだろうから,文句を言うのも大人げない気はするが,中身も東大,東大とけっこううるさい。タイトルが「東大生の」ではなく「東大合格生の」になっているのは,東大に合格しながら他の大学に行った人を含めているのかな,と思ったが出てくるのは東大生ばかりで,「合格」をつけているのはこの本のターゲットが受験生であることを示しているにすぎないらしい。「『これは使える!』と学生のみならず大人からも大反響!」というのがうしろの帯に踊る文句だが,この程度のことに大人が大反響してはいけません。でもきっと買っている人の大半は大人なのだろうな。
結論から言えば,悪い本ではない。
「ああしろ,こうすべき」という教師目線ではなく,学生(「東大合格生」)の声とノートの写真を中心に構成している。高校生なら,ノートの写真を眺めるだけでも参考にはなる。おまけに,そのノートたちがたいして美しくないところがよい。
筆者は「東大合格生」のノート収集から「7つの法則」を引き出している。いわく,
- とにかく文頭は揃える
- 写す必要がなければコピー
- 大胆に余白をとる
- インデックスを活用
- ノートは区切りが肝心
- オリジナルのフォーマットを持つ
- 当然,丁寧に書いている
うーむ。ま,よろしいんじゃないでしょうか。あたりまえのこと,と言ってもいいのだが,確かに当たり前のことしか書きようがない。
1.は文頭を揃えると言うより,インデントを意識する,の方がいいかな。
2.はそのとおり。英語の長文を書き写す必要はない。
3. や 5. は,案外,生徒に浸透していないことかもしれない。ぎゅうぎゅう詰めに書く生徒は多い。
4.は科目によっては必要ない。
7.はどうかな。ノートの丁寧さ,まして美しさは,成績と比例しない場合が多いような気がする。
6. が肝心なのだが,こればかりは試行錯誤するしかない。
自分の経験から言っても,高校生くらいの勉強というものは,じつはかなりの部分,事務的な手作業に時間を取られている。試行錯誤も含め,学習そのものより,学習スキルの体験学習という意味合いが大きい。勉強法を勉強することに時間が取られているし,それはしかたのないことだと思う。その体験学習を自力で積み上げることもだいじではあるが,教師や先輩や同級生から伝わる,「盗む」という形で昔からスキル教育は行われてきた。人のノートを借りて,「あっ,これ自分もやってみよう」とかである。
今の世の中は至る所で経験伝承のパイプが詰まっているようなので,そういう基礎的なスキルに無知(ならまだいいが,無関心)のまま大学生になってしまう人が多いのだろう。
もちろん,ノートは科目によってずいぶんと違うものになるはずだ。体系的な知識を伝授することに重点が置かれる理科,社会(地歴,公民)は,ノートも必然的に体系的になる。「美しい」と呼べるノートが出現するのもたいていこの分野だ。それにくらべ,演習が中心になる英語・数学はフォーマットが決めにくい。左のページに長文をコピーして貼り付け,右に教師の説明を書く,なんてのが一般的だが,長文の長さや難易度が変わるとバランスがとたんに崩れてしまう。この本に載っている英数のノートも,かなり乱れていたり,特に珍しくもないノートだったりするのだが,それは科目特性から考えて当然のことだと思う。予習に重点を置くか,復習の便宜を考えるかでも違ってくる。
ノートをきれいにすれば成績が上がるわけではない。ただ,ノートについて考えることは,勉強にどう向き合うかを考えることに等しいので,その態度の変化が成績に反映するのは当然のことだ。ノートはそれを考える手がかりとしては重要であることに間違いはない。
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バラエティ番組で芸人の発言に字幕スーパーがつくようになったのはいつ頃からだろうか。
インテリからは軽蔑の対象でしかないお笑い番組だが,僕はけっこう好きな方の部類に入るだろう。その番組の出演者のやりとりの核心部分が,よく字幕としてスーパーインポーズされる。昔はそんなものはなかった。ただ耳で聞いて笑うだけだ。これが始まったのは,まったく個人的印象に過ぎないのだが,どうも1995年頃だったような気がする。
当時はオウム真理教事件の渦中で,テレビは朝から晩まで「オウム」で明け暮れていた。番組には教団関係者,元信者たちの内部暴露インタビューがあふれていていたが,当然その告発者たちの顔は映されず,音声は加工されている。聞きにくい音声だから,画面の下にはその発言がテロップとして文字で表示される。そんな番組を次から次へと見て,ふとチャンネルをバラエティに切り替えると,そこでも同じことを始めていることに気づいたのだ。「ここで笑ってください」と言わんばかりに,オチは色つきの文字で大書されていた。
あっ,テレビが予備校化している,その時最初に感じたのがこれだ。
予備校というところは(今は高校も予備校化してしまったので同じようなものだが),耳で聞けばわかることをわざわざ黒板の上に文字や図やチャートとして見せてあげる業者である。生徒からのアンケート(予備校講師の最大の関心事)には,「板書はわかりやすいか」という項目があるところもある。いかにわかりやすい板書をするかに教師生命を賭けいてるの,とでも言いたくなる教師もいる。これが重視されるようになったのも,さかのぼっても1980年代後半ぐらいからだろうか。
べつにテレビや予備校に限ったことではない。わかりやすいことが最大の価値であり,そのためには耳よりも目に対する訴求力に頼る,というのが近年の傾向といっていいだろう。ちまたの書店には「図解のしかた」「ビジュアル化」「見える化」(!)を殺し文句にした本があまたころがっている。情報の受信者が,耳で聞いたことを自分で再構築し,重要だと自分が感じたことをそこから抽出し,必要なら自分で図解するというよりも,発信者側が,あらかじめ枝葉を切り落としてエッセンスをわかりやすく提示することが重視される,そういう時代であるらしい。どうも「聞いて理解する」という能力は退化し始めているようだ。
年寄りは昔話ばかりする。まだ老人の一,二歩手前だと思っているが,昔話ついでである。
僕が通った中学校は私立中でカリキュラムが独自のものだったので,中学から漢文やら微積分やらをやらされた。中一の時の社会は「地理」を扱い,先生は「ジロリンタン」というあだ名の,ギョロッとにらみつける目のこわいおじいさん先生で,僕のクラスの担任でもあった。
授業は彼の古いノートを読み上げていくだけで,気が向いたら地名ぐらいは黒板に書いたが,それ以外は余談もなく,おそらく毎年同じ内容をなぞっていく退屈な授業だった。体制の転覆も,国名の変化もない,「冷戦」という奇妙に安定した時代だったのである。それでも,中一である。その退屈きわまりない授業を退屈と思わず(きっと思ったんだろうが,退屈の責任は退屈だと思う自分の方にある,と考えられていた),誰も文句も愚痴も言わず,ジロリンタンのことばをノートにただただ書き留めていった。中学からの勉強はそれまでとはまったく違う「学問」の入り口だという信仰がまだ生きていたように思う。いまでは消えてしまったが,授業で書き取ったノートを家でまとめ直す「ノート整理」などということばも健在であった。むろん成り行きでは入れてしまった有名私立の中学生としての矜恃もあっただろうが,当時は多かれ少なかれどんな授業でも同じようなものだったのだ。そして,一年間しわがれ声をノートに文字化していくことで,自分なりのノートの取り方が確立していったのではないか。
考えてみると,人の話を耳で聞き,それを自分で文字や記号に変換して行くという作業は,一昔前までは中学生くらいで身につけておかなければならないスキルだった。そんな教師ばかりだったのだから,自然に身につくスキルであった。今はそういう「常識」はなかなか通用しない。予備校はもちろんだが,高校も,さらには大学でも,教師たちは板書で,あるいはプリントやパワポで,あらかじめ視覚化され整理された情報を提示しなければならない。学業に関する労力遂行義務(の一部)が生徒から教師側に移行したわけだ。義務を履行しない教師は,履行する多くの教師に対して比較劣位に立ち,生徒から忌避され,市場から淘汰される。いまや誰でも知っていることだが,授業は商品となったのである。
さて,こうした変化によって何かが失われたのだろうか。仮に失われたとして,その喪失は哀惜にあたいするものなのだろうか。復活されるべきものなのだろうか。それがよくわからない。
ま,いずれにしても昔話はこのへんにしよう。
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締め切りまで間がないんだけど,模試を3本(問題+解説)を作る宿題が残っている。昔から夏休みの宿題は8月31日ではなく,9月に入ってからやる主義だった。お尻に火がついて,さらにその熱さが実感できてからでないと動き出せないのですね,わたしは。
これが大学入試なら,合否だけを決めればいいから話は別なんだけど,予備校の模試というものは生徒各人が自分の弱点を発見しつつ,全体の中での立ち位置を見つけるという役割があって,得点分布を適当に散らばらせるのが至難の業だ。だいいち,現役生の場合ホントの意味で実力が伸びるのは冬休み頃からで,それ以前は一部を除けばほとんどダンゴ状態・どんぐり状態なのだ。その母集団をうまく散らばらせる問題なんて無理な注文だよな。そこにいろいろな営業的は配慮・大人の事情的問題が絡む。
というわけで,泣き言はこれくらいに。
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人によってちがいますが,質問するには多少の勇気が必要なこともあります。勇気,は大げさにしても少しくらいのハードルはあるものです。
そのハードルを越えて質問に行って,先生はいろいろと答えてくれたとしても,どうもすっきりしない,そんな経験もあるでしょう。そういう場合を考えてみましょう。
わたしの経験では,質問されて生徒にうまく答えられた,納得してもらえた,生徒はわかんなかったことがわかるようになって晴れやかな顔をしている,そういうケースは質問件数のよくても半分くらいじゃないかと思います。残りの半分は,わかったようなわかんないような顔,「そんなこと聞いてないんですけど」っていう顔,わかんないけど「まあ,このへんで勘弁してあげるよ」っていう顔をされたり,逆に「ごめん,こっちもよく知りません」っていう場合などですね。
質問に対応する教師は医者のような態度で生徒に接します。わからないってことは別に病気ではありません。でも,患者が頭が痛いと訴えたからといってすぐに頭痛薬を処方したり,脳の手術をするなんて医者はいません。頭痛という症状の下にどんな原因が隠れているのかまだ分からないからです。教師も質問されたポイントに答えるだけでなく,生徒がわからないホントの原因がどこにあるのか探そうとしています。ひょっとすると,大きな病気が隠れていて,それを治療すれば他のことまで一気に解決できる,つまり一気に成績が伸びるってこともありえないわけではないのです。
だから,生徒も自分の症状だけでなく,そうなるに至った経過,「これがわからないのは,こっちのポイントと関係しているかも」と自分で思うような関連事項を話してくれると,教師にとってはヒントになるかもしれません。このシリーズの第1回で,「質問は教師とのコミュニケーション」だと言いました。コミュニケーションというのは簡単のように見えて,すごく難しいことです。自分のモヤモヤをうまく言葉で表現するにはかなりのスキルと経験が必要です。家族や友人との会話という世界の中ではなかなか経験できないかもしれません。でも将来いちばん必要になるのは,勉強自体よりもコミュニケーション・スキルでしょう。
コミュニケーションが失敗するということは,多くの場合どちらか一方の責任というよりは,双方ともにかみあわない原因があるでしょう。質問が失敗するのも,両方に原因があるかもしれません。
- 教師もよく分からない ― 生徒がムチャぶりしてません?
- 教師の説明がヘタ(ヘタすぎなのは弁解不可能だけど) ― 生徒もうまく誘導してあげましょう
- 教師が質問の意味を誤解している ― 「そっちじゃなくて」と言ってあげよう
- 質問が漠然としすぎ ― 具体例をいくつか挙げて先生にヒントを出そう
- もともとそのポイントは,すっきりした説明が不可能
最後のがいちばん難しいかな。ちょっと説明しておきます。
学習の上でいちばんたいへんなことの一つは,「ココがわかんないと先に進めないのに,先に進まないとココもわかんない」場合があることです。つまり,「ココ」を今すぐ完全にわからなくていい,でも先に進んでから振り返ってみるとわかるかもしれない,そこを振り返って以前よりもわかると,より先に進みやすくなる,そのあとでもう一回振り返るともっとわかっている,そういうケースです。こういうポイントが意外と多いですね。
よく「しっかりと理解してから先に進みましょう」とか言われたりしますが,「テキトーに理解して,とっとと先に進んだ方がいい」という場合もあるのです。だいじなのはテキトーにすますことではなくて,テキトーにすませて進んだ後で,もう一回(何度か)振り返るかどうかです。「だいじなことを見落としていた」と悔やむことが人生にはよくありますが,じつは後ろを振り返る時にしか見えないものもあるようです。
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rickie
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「質問しようかな?」と思うってことは,わからない,わかるような気もするがすっきりしない,よーくわかるんだけど既に知っていることとうまくつながらないような・・・そんな何かがあるはずです。まずそれを特定することが,質問をする前にやっておく第一のことになります。
ところが,これがなかなか大変なんですね。「何がわからないかさえ分からない」とよく言いますが,「何がわからないか」が分かっていれば,その気になれば時間はかかっても,ほとんど自分で解決できます。
時々いるのはこんなタイプ。
「センセー,わかんないから,もう一回説明して。」 (こういう子はなぜかタメ口)
「いいよ,どのへん?」
「ぜんぶ。」
「ぜっ,ぜ~ん~ぶ~?」
何がわからないのか,自分はどこに引っかかっているのか,何にすっきりしないのか,それを見つけることは自分の頭や心を探っていくことと同じです。自分の中のどこかで迷子になっている自分を見つけることです。そう考えると,そっちの方が質問そのものよりもよっぽど難しいし,よっぽどだいじだということもわかりますよね。はっきり言って,質問でおそわった内容なんかそのうち忘れるにきまってますが,質問をするために,自分の中の迷子探しのやり方を身につければ,それは一生モノの技能になります。別に勉強だけではなく,生きていく上でものすごく大切なことです。
● 場所を特定する
どこまで分かっていたのか,どこらへんから分からなくなったのか,それを思い出します。本やテキストならもう一回読みなおして,授業ならノートを見ながら教師の言葉をもう一回たどりなおして,このあたりから「あれっ?」と思って,このあたりではぜんぜん分かんなくなった,という場所を見つけます。これだけでほとんど解決,ということもあります。
● ことばの問題
テキストや参考書や教師が使っていることばの意味が分からないだけ,ということもあります。授業中はやりにくいけど,授業以外ならそのことばを調べてみましょう。電子辞書でもネットでも紙の辞書でもかまいません。それでもその言葉が分からないときには,別の辞書などにあたってみるのがだいじです。別の角度から説明されると,案外見えてくるものがあります。
● 一回リセットする
もういちど,自分を白紙の状態に戻してから,読みなおしたり,授業での説明を思い返したりします。自分の中にあるヘンな思い込みがじゃまをしていることがあるからです。でも,この自分の思いこみに気づくのは実はいちばんむずかしいことかもしれません。
● 定義や基本に戻る
これは上のリセットの一部といってもいいでしょう。「そんなこと知ってるよ」と自分では思っていることは多いと思いますが,実は分かっていない,ホントは教師もよく分かっていない,教師どころかまだ学問的に解明できていない,ということもたくさんあります。「そんなの知ってる」と思う方がおかしい場合もあるのです。かんたんなことが実はいちばんむずかしい,というのは全科目,学問と知全体についていえることです。
● 既知の知識との衝突
自分では気づきにくいのですが,今まで知っていることとなんか矛盾しているような気がしてわかんなくなった,ということは結構多いのです。人間は今まで知っていることと,新しく知ったことがうまくつながった時に「わかったぞ」という喜びが生まれます。逆につながらないと,「わかんねー」という気になります。だから,今までに知っていることのうち何が,今のわからないポイントとぶつかっているのか,齟齬をきたしているのかがわかれば問題が解決することはよくあります。今まで知っていたことの方が間違っていたということもあります。
● メモを取る
何がわからないのかをメモしてみましょう。わからない部分を書き写して ??? マークをつけるだけでもかまいません。さらに,その時思いついた関連事項も書きとめてみるといいでしょう。メモを取るというのは,わからないことを客観的な形にするということで,これができるということ自体かなりの力が必要ですから,思うほどいいメモは書けないものです。でもこれでひらめくこともあります。
疑問を持つことは,大チャンス。確実に次への大きなステップになります。疑問を持つことはあなたの知識が欠けている証拠ではなく,あなたがすぐれている証拠です。
あれっ,この稿のテーマは「質問」だったはずなんですが,今回は質問に行く前の話ばかりでした。上に書いてあることを全部やったら,質問しようなんて気持ちかとっくに消えているかもしれませんね。まっ,途中で打ち切って,さっさと職員室に行っちゃってもいいですけど。でも,上の一つか二つはチャレンジしてほしいですね。
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rickie
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その昔,某有名予備校の某・超有名講師は質問というものを受け付けなかった。いや,いちおう生徒の質問は聞くのだけれど,それが授業で触れたことであれば,「それはこないだの授業で解説した。聞いていないのは君の責任だから,わたしは答えない。」とけんもほろろの対応だったそうだ。実際その現場を見たわけでも,その先生と面識があったわけでもない(その先生はもう鬼籍に入っている)ので,どこまでホントの話なのかはわかりません。授業で話したことでももっと深く聞きたいという場合もあるわけで,そういう時まで門前払いしたとは思えないから,場合によりけりだったのでしょう。
こんな対応ががほんとうに可能だったとすれば,それはそれですごいことです。こういう対応をして,なおかつ生徒の信頼を失わないでいるためには,それ以前に生徒との人間的な関係をしっかり作っておくとか,すごい名声があるとか,「まああの先生ならああいう対応もアリか」と思わせるだけの下地がないとなかなか難しいでしょう。
最近ではそういう先生は絶滅しました。最近は,教師も親もメディアも何もかも大人たちは教えすぎる,もっと自分で考えさせなければいけない,ということが言われるようになってから久しいのですが,さまざまな圧力(少子化だから生徒を逃がせない,世間の風当たりが教師に厳しいなどなど)や,大人の側の自信のなさ(自信しかない大人は困りものなのに)のため,生徒にはやさしく,ていねいに,というのが今の教師・おとなの平均値になっています。
生徒に覚えていてほしいことなのですが,おそらく先ほど述べた超有名な先生も,気むずかしい陰険教師も,わたしも含めて,すべての教師は質問されるのは大好きなはずです。そういう種族なんです。授業が終わって,いっぱい質問されて,自分なりにいい回答ができた日にゃあ,ウキウキしながら帰宅できる,逆になーんの質問もなかった日は心にポッカリ穴をあけたまま電車に乗らなければならない,そういう生き物なんです,教師ってのは。
わたしの見る限りでは,これに例外はありません。先ほどの先生のように,逆の意味での教育的配慮から質問を拒否するないし質問に答えではなく,答えのヒントだけしかあげないという場合はありえます。それから,たまーに,質問に怒り出す先生もいます。横から見ているとわかりますが,そういう教師が質問に怒るのは,その質問に答えられなくて(よくあることです),「うーん,わかんないな。調べてみるよ」と言えばいいのに,なぜかそう返事することができない(プライド?)場合でしょう。
そこで,質問する生徒へのアドバイスです。
「質問」というのは,知識が欠けている生徒が,知識と経験豊富な先生に教えていただく,知識のおこぼれをちょうだいする,ということではありません。「質問」というのはコミュニケーションの一種であり,コミュニケーションというのは,見かけはどうあれ,双方が対等でなければ成り立ちません。一見,教える⇔教えられるという力関係があるように見えても(そしてそれにこだわる大人もいますが),心の中で「なんてバカな答え方なんだ」「こいつ質問の意味わかってないぜ」と考える自由があなたにはあります。少なくとも内面的には,対等なプレーヤー同士が行う言葉による質問ゲームです。
対等なのですから,心の中では「上から目線」で質問していいわけです。ことばで上から物を言えば怒られるでしょうが,「この人,この質問の仕方だと答えにくそうだから,ちょっと別の言い方をしてあげよう」とか「あまり追い詰めないで逃げ道を作ってあげよう」とか,あなたの方がオトナの態度で臨んだ方がうまくいくでしょう。言葉づかいは下手に出た方が無難ですが,言葉とは裏腹に,頼りない先生をちゃんと質問に答えられる先生にしてあげよう,くらいの気持ちを持ってかまいません。だいじなのは,先生の教えていただくというより,先生に一緒に考えてもらうことであり,そのためにはどういうふうに話を持っていけばいいのかを考えることです。質問は,一種の交渉みたいなものです。
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rickie
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