It doesn’t matter if a cat is black or white, as long as it catches mice. (Deng Xiaoping)

英語からの直訳は,「ネズミを捕まえてくれる限り,黒猫か白猫かはどうでもいい」

  ・ as long as S + V   「・・・する限り」

  ・ matter (v.) 「重要である」

このタイプの表現は英語ではよく使われます。 It matters little who will discover the cure for cancer, as long as it can be discovered. のような形です。

日本では,というか世界では鄧小平(邓小平)の言葉として有名ですが,もともと中国(または彼の故郷の四川省)の古諺のようです。私の持っている「東方中国語辞典」では,

   不管白猫黑猫,捉到老鼠就是好猫。

という文が「猫(mao)」の項にあり,「白ネコであれ,黒ネコであれ,ネズミを捕るのはよいネコだ:手段より目標達成が大切であるたとえ。」と訳・解説がついています。鄧小平は文化大革命中にこの発言をして,毛沢東から批判されたようですが,「改革・開放」の時代になって広く取り上げられるようになりました。

経済発展できるのなら,共産主義者の手であれ,市場原理によるものであれ構わない,という意味で読まれました。したがって,原理・原則を,あるいは主義・イデオロギーを最重要視する人々には批判されるのも当然と言えますが,功利主義 ( utilitarianism ) の立場に立てば,ごくあたりまえのことを言っているにすぎません。

若い頃はともかく,今の私はこの言葉は嫌いではありません。少なくとも,白ネコか黒ネコかが問題になるのはネズミを捕まえた後である,と考えています。いつのまにか私はプラグマティストになっています。原理・原則の無原則的適用は,有害なものしか残さなかったと思います。

でも一方で,以前ケインズの言葉を取り上げた時に述べたように,原理・原則・主義・イデオロギーから簡単に自由になれるわけでもないでしょう。プラグマティズムもユーティリテアリアニズムも,イズムにずぎません。鄧小平の場合でいえば,「経済発展のためなら」という前提がすでにイデオロギーとなっています。ゴリゴリの共産主義が経済発展をもたらさないことは当時も自明でしたから,鄧小平は「何色の猫でもいい」といいながら,明らかに市場経済に肩入れしていたことになります。(と,少なくとも解釈はされました。)

というわけで,ここでいつもながらの自己矛盾に逢着します。そして,この自己矛盾を解決しないままほったらかす,というのが今の私のとりあえずの主義なのですね,これが。

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