涙もろいのは

涙もろいのは今に始まったことではないのだが,最近は度を越しているような気がする。

きのうは,「妻たちの三下り半」というドラマを見て泣いた。ドラマを通して見たのではない。最後の10分足らずのシーンだけ見て(というか,見始めてすぐ)涙が出てきた。最初の一時間数十分は見ていないので,ストーリーはよくわからないのだが,離婚寸前の危機にある舘ひろしと岡江久美子の夫婦が,娘の結婚式で和解と再生を果たす(犬もカギ?)という,ここに書き写すのも気恥ずかしいステレオタイプの物語らしい。ドラマ制作者が視聴者を泣かせにかかっているということは,百も承知。それにまんまと乗せられて泣いている自分を,情けなく思うかというと,これが嫌いじゃないんですよね,そういう自分が。

少し前には,ドコモかauかわからないけれど,「後妻に入った女性が,夫の連れ子にメールを送る」という設定の30秒CMでも泣けました。泣きながら,30秒で泣けるってけっこうすごくない?と思いましたね。何がすごいのかよくわからないけれど。

「セカチュー」やら何やらが流行った頃には,よく「感動の押し売り」に対する批判の声が上がった。それもよくわかる。ありきたりの悲恋ストーリーや浪花節的お涙頂戴話は,わが文学的主義主張からしても唾棄すべき反動的イデオロギーなのではあるが,それとは別のところに涙を流してすっきりさっぱりしている自分もいる。何なんだろう。日常に疑似カタルシスを組み込むことで,日常を安定的に永続化せしめるシステム?これは「泣かせ」も「笑かし」も同じか。でも,組み込んでいるのはあちらでもあり,こちらでもあるわけで,まっ,共犯関係ですね,これは。

私の場合,どうも慢性的な副鼻腔炎気味で,涙を流すと,根拠はないがなんとなく調子がいいような気がする。健康的配慮からも,涙の生活は手離せないのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。