あっという間に秋になってしまい,今年もまもなく終盤を迎える今になってこんなことを言うのも遅いのだが,2009年という年はなぜか「〇〇n周年」というのがやけに多い気がする。
- ダーウィン生誕200周年
- リンカーン生誕200周年
- エドガー・アラン・ポー生誕200周年
- 太宰治生誕100周年
- 大岡昇平生誕100周年
- 中島敦生誕100周年
- 松本清張生誕100周年
- 埴谷雄高生誕100周年
- 花田清輝生誕100周年
大物だけをあげたつもり。
それから,現代史を見ると,
- 第二次世界大戦勃発から70周年
- 中華人民共和国建国60周年
- 天安門事件20周年
- インターネットができてから40周年
なんてのもある。
まあ,10n周年なんてのは10年ごとにやってくるわけだし,100n周年だって(nは自然数),綺羅星のごとくあまたいる過去の有名人の「生誕」「没後」を合わせれば毎年かなりの数の偉人賢人のイベントが発生する。別にとりたてて話題にするほどのことでもないのだが,それでも僕が関心を持っている人物・事件と重なる部分が多いのも事実で,それゆえ「今年はやけに多いな」という気がするのだろう。
- centennial /senténiəl/ 100周年(米) (centenary (英))
- bicentennial /baisenténiəl/ 200周年(米) (bicentenary (英))
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rickie
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「君が誰かに憎しみを感じているのなら,それは彼の中にある,君自身の一部を憎んでいるのだ。自分の一部ではないものは,私たちの心を乱したりはしないものである。」 (ヘルマン・ヘッセ)
「デミアン」(Demian) の一節。
something in him that is part of yourself において,関係代名詞 that の先行詞はsomething。「君自身の一部でもある何か,それが彼の中にもあってそれを憎む」ということ。
好きな自分と嫌いな自分がいる。
でも,嫌いな自分など,見たくはないし,見せられたくもない。
好きな人と嫌いな人がいる。
好きな人といっしょにいると,好きな自分を見せてくれる。
嫌いな人といっしょにいると,嫌いな自分を見せつけられる。
ってなところか。
ヘッセが好きだったのは,中学生の頃だ。「デミアン」もその頃読んでいる。
好きといっても,単なる青春小説として読んでいたような気がする。大学生くらいが主人公の青春後期小説(いま作ったことばだが)ではなく,青春前期小説である。いつの時代にもある,大昔なら石坂洋次郎みたいなやつ。今ならば誰だろう。綿矢りさ?島本理生?作者が若いというだけか。あさのあつこ?いや,ケータイ小説があったか...
上のヘッセのことばを「デミアン」で知ったのかどうか,記憶ははっきりしない。でも,そのことばの思想にはずいぶん昔からなじんできたような気がする。今自分が感じている憎しみ,嫌悪は,結局彼のせいではなく,自分の中に淵源があるものにすぎない。他人に責任を押しつける方が楽だから,こういうものの考え方は精神衛生上よろしくないように見えるかもしれないが,そうでもない。他人を憎むことも十分ストレスであり,人によっては自分で背負った方が楽な場合もある。
そんなふうに思ってきたのだが,さてそれも結局,背負っている自分の姿に悦に入っているだけではなかったのか。まあ,そこから先は堂々巡り,無限の穴掘りになってしまうので,とっとと切り上げよう。
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rickie
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「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」(太宰治)
太宰治(1909-1948)が,書店ではブームです。今年は生誕百年で,また昨年で死後60年の著作権切れを迎えて著作権フリーになったせいか,太宰の本が本屋のあちこちに並んでいます。一般読者の中から自然に盛り上がったブームというよりも,出版界が盛り上げたいと思って仕掛けているブームのようです。
引用は,「右大臣実朝」(1943)の有名な一節。拙訳です。太宰の研究者は海外にもいるようですから,きっとどこかに定訳があるのだと思いますが,ネット上には見当たらず,それ以上探す手間を惜しんでしまいました。
いろいろ考えたのですが,結局直訳っぽくなってしまいました。 "you have some hope" のところが気に入りません。もっといいのないでしょうか?
このセリフは平家について述べたものですが,戦時中から戦後にかけての日本が二重写しになっているのはいうまでもないでしょう。
太宰といえば思い出すのは,高校三年生の夏,受験勉強などそっちのけで,当時筑摩書房で出ていた太宰全集を一冊ずつ買い集めては,一日一冊ずつ読んでいた暑い暑い夏休みのことです。太宰に満腹すると,ドストエフスキー。明け方までかかって読んでは,早朝の目黒から世田谷にかけての街を一,二時間歩き回ってから床につく,という生活でした。歩き回れば,体は暑さにまみれても,頭は少し冷えるわけです。あまりにも,ひと昔前のありきたりの青年というかんじです。「暗い」といえば「暗い」のでしょうが,そんな時に上の太宰の言葉を繰り返すわけです。
確かに明るさや燥ぎが病的に見える時があります。あまりにもせっぱつまってしまい,明るく振る舞うしかない,意味もなく浮かれることも,きっと誰もが経験することでしょう。燥いでいるその姿が哀れに見えることも。でも,暗さもきっと,そこに希望がほの見えることを保証はしないでしょう。救済しようのない暗さというものもきっとあるのだと思います。さいわい,そこまでの経験はないわけですが。
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rickie
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誰でも一度や二度は経験があり,したがって他人がその経験をしてもあまり同情もされず,「ははは,やっちまいましたか,それはそれは」と受け流されるのがオチなのだが,「やっちまった」本人からすれば人生の重大事であり,へたをすれば一晩眠れない夜を過ごさねばならないような事件というものがある。何と言うことはない,たとえば財布をなくすというようなことだ。
財布をなくしてしまった。夜にコンビニのレジで金を払おうとしたら財布がない。出がけに着替えた時に,財布を移し忘れたのだと思った。こっぱずかしいが,「すいません,財布置いて来ちゃって。取ってきますから,この商品置いといてもらえますか。いえ,5分か10分です。」とか言いつくろって家に戻ると,そこにも財布は見当たらないのだ。ただでさえ,書類やら本やら新聞やらが散乱した部屋を引っかき回し,山を崩し足場を掘り返しても,あるはずのものが出てこない。いつもならこれくらい探せば,人をあざ笑うかのようにひょっこり現れるものなのだが。高をくくって気分がだんだんと暗然としてくる。どこかで落としたのかもしれない。とりあえず鞄にあった千円札二枚をつかんでコンビニに戻った。
道すがら,自分の財布が道にころがっていないか,きょろきょろしながら歩いていく。むろんあるわけはない。ひょっとして気づかないうちに,コンビニのカゴに商品と一緒に入れてしまったのではないか。いや,そうだ。それしかない。バカだねー,俺も。店員が今頃笑ってるよね,などと思い決めてレジに戻ると,やはりないという。
またきょろきょろを繰り返しながらいったん家に帰って,発掘作業を再開。だんだんと軽い絶望というか,間歇的パニックというかが襲ってくる。まあ,中の金額はたいしたことはないのだが,銀行から下ろしたばかりだし,カードがいっぱい入ってるし,免許証もあるし,回数券も買ったばかりだし。発掘が部屋の整頓作業に拡大しても,やはり見つからなかった。
最後に財布を使ったのは,近所の別の店。あそこのレジの時点までは確実にあったのだから,金を払って財布を胸ポケットにしまった時にずり落ちたか,ちゃんとポケットに入りきらないまま歩き出して帰り道の途中に落ちたのか。その店が最後の頼みの綱で,人通りの少なくなった夜道を右に左に目を凝らしながら歩いていく。
もし見つからなければ,あちこちに電話をかけてカードの停止を請求しなければならない。ああ,めんどくさ。銀行は最近は10万以上の引き出しに本人確認が必要になったので,被害額は大きくはなりそうにない。すると問題はカードか。
「落とし物ですか。届け出はありませんけど。」と店のバイトのあんちゃんは言う。万策つきてしまった。
見つからないとすれば,前後の状況から盗まれた可能性は低い。すでに誰かが拾っているということか。拾った人がふつうの人なら警察に届けるだろう。免許証が入っているからすぐに警察から連絡が来るはず。この時間では届けにくいから,届けるのは明日の午前中。だとすれば昼には連絡が入る。それまで待って,そこから銀行やカード会社に連絡ということになる。ひょっとすると近所の人が免許証の住所を手がかりに直接届けてくれるかもしれない。お礼は1割だっけ。それとも2, 3割?手続きのめんどくささを考えれば,数千円出してもいいか....
すでにおわかりのこととは思うが,ヤツは意外なところから現れた。そういうものだ。
あきらめて家に戻って,あしたの手続きの順番など考えながら,しかたない,気分を切り替えて風呂でも入ろうと思ったら,その風呂場から出てきたのである。
実はコンビニに行く直前に昨日の風呂のお湯を抜いたのだが,そこでかがんだ際に胸ポケットから落ちたらしいのだ。ヤツは風呂場の手桶の中にすっぽりと収まっていた。
その時のうれしさと言ったら。まるで人生の憂さがすべて晴れ,悩みは消え,輝かしい未来が開かれたかのようだった。財布をなくして,それを再発見する,そんな愚かしくも日常的な出来事から,こんな心の底からの歓喜がやって来るとは,そちらの方が驚きでもある。
何の教訓も得たわけではない。自分の人生が少しでも前進したわけでもない。ただ自分のせいで,ちょっとした落とし穴に落ちて,1, 2時間で元に戻ったにすぎないのだが,けっきょく人はこういうことを繰り返して嘆いたり,喜んだりして生きているのだろうか。同じ場所で転落と回復を何度も経験しながら,そんなことからもちょっとした歓びは得られる。じつにくだらないのだが,それはそれで,まあいいか,というような気がする。自分の人生はまるごと肯定する主義なのである。
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rickie
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英語の本の値段は書店によってかなりばらつきがある。
日本の書籍は再販価格維持制度のため,ほとんどの本で定価が決まっていて,日本中どこで買っても同じ値段だ。アメリカでは書籍は肉や野菜と同じで,割り引きもできる。もともと価格が流動的なのだ。日本での輸入のしくみがどうなっているのかわからないが(「洋販」が破綻してしまったし),当然為替の変動の影響を受ける。一般の店頭の書店では,為替レートをリアルタイムで洋書の価格にリンクさせることはない。タイム・ラグもあるし,レートも店が適当に決めているようだ。
ネット書店もいろいろあるわけだし,ネットの古本屋も多い。日本でもアメリカでもそうだ。したがって,そういうのを探せばきりないのだけれど,品揃えとか信頼性とかアクセスのしやすさ,そして説明のしやすさから話をアマゾンに絞っておく。
アマゾンで洋書を買う場合,次の4つのルートが考えられる。
- 日本のアマゾンで,定価で買う
- 日本のアマゾンで,「中古商品」を買う
- アメリカのアマゾンで,new を買う
- アメリカのアマゾンで,used を買う
ほんとはこれに,さらにイギリスとカナダのアマゾンを使うという手もある。その他の書店でも同じ理屈なのだが,話を簡単にしておく。
この4つで価格の比較をして,いちばんリーズナブルなものを選ぶ分けなのだが,注意事項としては,
- ペーパーバックとハードカバーを混同しないこと
- 同じ本でも,特に大学の教科書・専門書などは版が頻繁に変わる場合があるので注意
- 当然,海外から注文すると,日本よりも高い送料がつく
- 米アマゾンの古本屋の場合は,日本に配送してくれるかをチェックしなくてはならない。Shipping の項目に"International shipping available." とあればOK。そうでないと個別に調べるなり,交渉するなりしなければならなくてめんどう。
- 古書の場合は,質的にどの程度かは最終的には手に取るまでわからない
日本のアマゾンにある,古書店に対する評価を見る限りでは,日本の古書店に対するよりも,海外の古書店に対する方が評価が辛いようだ。僕は全然気にならないのだが,質が気にする人なら新刊の方がいいだろう。
海外からの送料のしくみがわかりにくい。1冊の小さな本でも十数ドルとられることもあれば,けっこう重い本なのに7ドル程度で済むこともある。まあ,$ 6.x あたりが下限のようだ。
さて,どれが一番安いのか。
これは送料がモノによってかなり違うので一概には言えない。
ベストセラー・日本でも手に入りやすいペーパーバックの場合,
- 新刊の値段は,日米とも対して変わらないことが多い
- 古本だと,特にアメリカでは激安の場合があるが,もとの値段が安ければ,送料を考えるとアメリカで買うメリットは少ない
専門書の場合は,日米差がないこともあるのだが,大きな差がつくこともある。
僕が今買おうかなと思っている本を例に挙げると,
アマゾン.jp の新刊で,約16000円 中古だと逆に上がって 24000円
アメリカのアマゾンなら, $43.55 ,古本の最低価格は $37.40
となっている。新刊どうしでも4倍程度の差がある。これほどの差がつくことはそれほど多くはないが,探してみる価値はある。
大学の教科書のような,卒業シーズンに大量の古本が出やすい本だとかなり安くなる傾向があるようだ。そういう本は,書き込みなどが多いのだが,安いからまあいいや,と僕は思っている。今まで買ったものの中に,アメリカの古書店なのになぜか書き込みが日本語のものが複数冊あった。日本人留学生諸君,けっこういい本だよ。日本に持って帰りなよ。
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rickie
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僕が愛用している図書館は,横浜市中央図書館で神奈川県最大の図書館である。蔵書数では,150万冊を越える都立中央図書館にやや後れをとって140万冊程度だが,近所にある神奈川県立図書館の2倍あるし,18ある横浜市各区の図書館(区の数が18で,西区の図書館が中央図書館なので合計18館)と連携しているので,ネット上の市立図書館のサイトで蔵書を検索し,予約し,中央または各区の図書館で貸し出し・返却ができるという便利なシステムが出来上がっていて,このシステムは東京よりも進んでいるだろうと思う。横浜市各区の図書館は区立ではなくすべて市立なのに対し,東京の各区の図書館は区立なので,行政上,横浜の方が連携しやすいのだろう。
今日ネットから本を一冊予約したのだが,予約順11番目で,1回の貸出期間は2週間(県立は3週間なんだけどね)だから,順番が回ってくるのはざっと5ヶ月後ということになりそうだ。8月かよ。
上のサイトには「予約の多い本50」というページがあって,2009年2月1日時点でのトップは東野圭吾「流星の絆」。予約数なんと2157人である。さすがにこういう本は蔵書数も多く,調べてみると横浜市の全図書館で計115冊ある。それだけあっても,ざっと20人待ちである。
中央図書館は,京急の「日の出町」という駅から歩いて5分程度のところにある。その5分のあいだにラブホテルあり,ストリップ小屋ありで,あまり環境がいいとは言いがたい。
ここのところ日曜に返却して,新たに借りてくるというローテーションなので,日曜に図書館に行くことが多い。近所にはJRAの場外馬券売り場があるらしく,日曜日にはそれらしいオヤジが通りにあふれかえっている。尋ねたわけではないのだが,どうみても場外馬券売り場への行き帰りとしか思えない。どうしてみんな同じような服装,同じような顔つきなのだろう...と思って歩いていると,ショーウィンドーに映る僕の風貌は完璧にその街,そのオヤジの群れに異和感のかけらもなく溶け込んでしまっている。なんとまあ。
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関東近辺は土日まで春の陽気だったのに,月曜の晩からは一転,真冬に戻ってしまった。まだ2月半ばなのだから,「真冬」には違いないのだが。

梅は咲いたか
わたしの住む町は梅の名所らしく,駅からつづく坂を登り切ると梅林もあるし,庭に白梅・紅梅の植栽を見かける家も多い。「観梅会」なるものも間近だ。酒屋が地元でとれる梅から造った梅酒を売り出すのはいつ頃だったか。
梅。学名 Prunus nume。英語では,Japanese apricot とも,Chinese plum とも言う。春の季語。日本や原産の中国のみならず,韓国,ベトナムなど東アジアで広く愛でられてきた。
奇妙によじれた枝から,花そのものが蕾とみまがうほどの小ぶりでつつましい咲き方は,桜の華やかさとはちがった風情で,愛らしく,どこかほほえましい。「春告げ草」という別名があるらしい。

桜はまだかいな
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rickie
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「あなたが滅ぼす悪癖の一つ一つには,それと表裏一体に美点がはり付いていて,それも一緒に消滅してしまう。」
(アナトール・フランス 『エピクロスの園』)
- vice 「悪」「欠点」 ←→ virtue 「善」「長所」
- correspond 「対応する」
- perish 「滅びる,死ぬ,消え去る」
- along with ~ 「~といっしょに」
フランス語原文は À chaque vice qu’on détruit correspondait une vertu qui périt avec lui.
vice と virtue には個人の欠点・長所という意味と,道徳的な悪と善という意味の両方があります。
前者の意で,欠点を矯正すれば,長所もまた喪われる,というふうに解すれば,人の欠点はすなわち長所でもある,欠点をなくそうとしてはいけない,それによって長所も消えてしまうのだから,そういう理屈になるでしょう。まあ,よく言われることではあります。
もっとも,この vice と virtue は個人の欠点と長所のことより,世にある悪と善のことを言っているようです。その理解では,善が善たるためには悪が存在しなければならない,という意味になります。
この項を岩波文庫版から引用すると,以下のようになります。
悪は必要である。悪が存在しなかったら,善もまた存在しないであろう。悪は善であることの唯一の理由である。危険から遠いところでは勇気が何であろうか?苦痛なくして哀れみが何であろうか?
献身も犠牲もあまねき幸福の真只中にあってはどうなるであろうか? 悪徳なくして徳を,憎悪なくして愛を,醜なくして美を考えることができようか?地球が住めるものであり人生が生きるだけの価値があるのは悪と苦悩とのおかげなのである。されば悪魔についてあまり嘆いてはいけない。悪魔は偉大な芸術家であり偉大な学者なので,少なくとも世界の半分は悪魔が造ったのだ。そしてこの半分は他の半分の中に緊密に嵌めこまれているので,前者を傷つければその同じ打撃によって後者に同様の損害を与えることにならずにはいない。一つの悪徳が破壊されると,それに照応して,それとともに一つの徳が滅びる。
『エピクロスの園』 アナトール・フランス (大塚幸男 訳)
「悪の魅力」というと誤解されそうですが,少なくとも,悪のない世界はこの上なく退屈な世界になるでしょう。善が輝き続けるためには,どこからか悪を供給しなければならないのですが,仕入れ先が減ってくると善そのものが痩せ細ってしまいます。
時々,若者の中に戦争待望の声が聞こえることがあります。大人はそれを保守化傾向のあらわれのように語ったりしますが,わたしには右も左も関係ないように思えます。平和しかない世の中は退屈きわまりなく,どこからか戦争を仕込んできたくなるのは当たり前でしょう。海の向こうの戦争・「語り継がれる」戦争・仮想現実の中の戦争,そのへんで我慢するしかないよ,いい歳した大人としてはそれくらいしか言えません。
この世には悪があった方がいい,ただしそれが我が身に降りかかってさえこなければ。本音はだいたいそんなところでしょうか。
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ここのところ,コンピューターのレスポンスが悪化の一途をたどっていた。FirefoxとiTunesが常時動いていて,そこにWordだの何だのといった重たいソフトを立ち上げると,イライラしてくる。フォルダを開くだけでもタバコ一服できてしまう。かな漢字変換がとまることもよくある。
というわけで,思い切ってメモリーを増設した。1Gだったのを,2Gの増設で合計3G。
全体的には体感速度はかなり速くなっている。しめしめ。
考えてみれば,OSは買った時点でWindows XPで,それがSP2になっただけだし,Officeもバージョンアップしているわけではなく,新規導入ソフトは多々あるけれど,重たそうなのはFirefox+add-onや xampp くらいなのものだ。ソフトの累積で少しずつ負荷が増えていっただけなのだから,スピードが遅くなったのはCPUの責任ではなさそうだと考えての決断であった。
作業は何のトラブルもなく完了。いつものことながら,指が痛くなる。今見たら,右の人差し指の先から腹にかけて,うっすら切れていて赤く血がにじんでいる。
純正のメモリだったので,2Gで2万ちょいの出費。Vistaにするつもりはさらさらないので,その次のOSが出て軌道に乗るまでのあと2~3年はもってもらいたい。Office2007を導入しなければこれでいけそう。SP3はどんな感じなんでしょう。そういう色気もあるのだけれど,一方このスピードを維持したいよなあ。
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ノーベル平和賞の受賞者が決まり,あとは経済学賞を残すのみになった。複数の日本人受賞者が出たために,今年は大騒ぎだ。
文学賞発表の時は,ノーベル財団のオフィシャルサイトである nobelprize.org で,発表のライブ中継を見てしまった。
定刻を1分ぐらい過ぎてから,紙切れを持った紳士が白い扉を開けて会見場へ入ってきて,すぐその場で立ったまま,前置きもなく「今年のノーベル賞文学受賞者は...」と切り出す。発表の瞬間は全世界からのアクセスが殺到したためか,ストリーミングが途切れがちで聞き取りにくく英語ではなくスウェーデン語のようだった。だが聞こえてきた名前は HARUKI MURAKAMI ではなく,Le Clézio であることはすぐにわかった。名前が挙がった瞬間,会見場には8割方の「オー」という失望の声と,その中に少しの歓声が混じる。フランス人らしい女性記者が満面に笑みをたたえて小躍りしていた。村上春樹ファンとしては,そこでストリーミングを切った。
ル・クレジオの名前は特にフランスのメディアでは事前にあがっていた。アメリカのメディアではPhilip Roth, Don DeLillo, Joyce Carol Oates といったところ。各国とも村上の名前も入っている。イギリスの賭け屋の予想ではイタリアの誰とか氏が1位で,村上は6位だったはず。
南部・益川・小林氏の物理学賞は,南部氏の国籍がアメリカ国籍であることがあまり話題にならなかった。新聞では「日本人3人」が見出しに大書されていたが,NY Times や London Times では「アメリカ人1人と日本人2人」(イギリスでは順序が逆だったかも)という見出しだ。読売新聞はNY Times の記事に「アメリカ人1人などという記事さえ出た」と書き,なんかNY Timesの方が間違っているかのようであった。
上記のnobelprize.org には,過去の受賞者一覧に国籍は記されていない。ノーベル賞は国ではなく個人に与えられるものだと考えれば(そのとおりだが)国籍など無意味だが,「日本人3人」を強調すること自体,その考えからははみ出している。フランス国籍の高行健がノーベル文学賞を受賞した時,「中華民族初のノーベル賞受賞者」というニュースが中国では歓びを持って迎えられたと聞いて,わかるような,それでも「ちょっとちがうんじゃないの」というような気持ちがしたのだが,ことは日本でも同じだった。
確かに,ノーベル賞受賞者の数は国の学術的水準について幾許かを語ってはいるだろうから意味がないわけではない。平和賞や経済学賞は批判や議論の余地が多く,また文学賞はそもそも存在意義があるのだろうかとも思うが,わたしが門外漢のせいか,自然科学系についてはノーベル賞の権威はそれほど疑っていない。文科省には××年までに□□人の受賞者を出すことという目標があるらしいが,まあ理解はできる。(でも,ノーベル賞を取らせる教育って,ありうるのか?)だから,国別受賞者数をうんぬんすることもそんなに強く批判する気にはならないが,でもちょっと騒ぎすぎではある。自戒も入っていますがね。経済学賞のMASAHIKO AOKI もいつか取ってほしいし。
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rickie
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